ようこそ鈴蘭台福音教会へ☆

鈴蘭台福音教会のホームページにようこそ。
私たちの教会は、緑豊かな神戸市北区にある、
家庭的なプロテスタント教会です。
毎週の礼拝の他に、各種集会やイベント等を行っています。
教会は初めてという方も、どうぞお気軽にお越しください。

今年度標語
「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」
今年度聖句
●出エジプト記33章14節
すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行ってあなたを休ませよう
●マルコの福音書10章14節
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。」

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★2018.11.21 ホームページのレイアウトを変更しました

★12.4 教会カレンダー・アクセス地図を更新しました。

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連絡・報告new!

2019年1月13日(日)
本日は、朝10時より「みんなで賛美しよう」の時間を持ちました。礼拝後は成人祝福式を行い、12時半よりCS礼拝をもちました。(毎月第2日曜日のみ12時半~)

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礼拝メッセージ new!

2019年1月13日(日)「パロを祝福するヤコブ」創世記47章1~12節

ヤコブの一族はエジプトへ行きます。ヤコブの子ども5人はヨセフに連れられ
パロの前に出ます。そしてヤコブの一族はエジプトへの移住がゆるされます。
次にヨセフは父ヤコブを連れてパロの前に出ます。
そしてヤコブはパロを二度祝福するのです。(7節、10節)
あいさつとは「祝福する」を意味します。当時のヤコブは無力なヤコブです。
しかしヤコブは神の祝福の担い手として存在するのです。

1.ヤコブはパロにあいさつした。(7、10節)
パロがヤコブを祝福するのでなく、ヤコブがパロを祝福しています。
これは驚くべき出来事です。キリスト者は日本において少人数で、無力です。
しかし信じている神は大いなる神で祝福の神です。
キリスト者はこの世の権威や権力にも及ばない力を信仰により得ています。
ルターは「万人祭司説」を唱えました。
キリスト者は祭司としての使命があることをいつも覚えたいです。(Ⅰぺテロ2章5節)
後にヤコブは子どもだけでなく孫のためにも祝福を祈ります。
「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し」
(へブル11章21節)とあります。わたしたちの神は生きて働く祝福の神です。

2.ヤコブは旅人です。(9節)
ヤコブはパロに言います。「わたしの旅路の年月は百三十年です。」
(新共同訳9節)と。ヤコブは自分の人生を旅人と例えます。
キリスト者にとっても、人生とは旅人であり、仮住まいです。
将来行くべきところは永遠の神の都で、ここがキリスト者にとって目指すところです。
ですからこの世の風潮に流されて生きることがないように気をつけるべきです。
(へブル13章14節)

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集会・イベントお知らせ

2019年1月のお知らせ

元旦礼拝  1月1日(日) 11:00~
写真撮影・雑煮親睦会 同日12時過ぎ~

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これまでの連絡・報告

2019年1月6日(日)
本日は、2019年最初の礼拝でした。今週は1月1日(火)に元旦礼拝ももたれ、午後から美味しい雑煮を食べながら親睦も深めました。

2018年12月30日(日)
本日は、今年最後の礼拝でした。ランチは少し早めの年越しそばでした。

2018年12月23日(日)
本日は、クリスマス礼拝と、午後からクリスマス祝会でした。持ち寄りの美味しい手作り料理やケーキを食べながら、フルートとギターの演奏や独唱、ゲームやなぞなぞ大会をして、大変楽しい時を持つことができました。

2018年12月16日(日)
本日は、定例役員会がありました。夕方からもたれる予定だった青年クリスマス会は中止となりました。

2018年12月9日(日)
本日は、午後から子どもクリスマス会でした。7名の子ども達が集い、
楽しくゲームやなぞなぞをした後、主の生誕メッセージを聞きました。
終わってから、有志の姉妹による美味しいデコレーションケーキも食べました。
はじめて教会に来た子ども達も2名いて、感謝のひと時でした。

2018年12月2日(日)
本日は、ランチのきつねうどんを食べてから、午後から各会の例会でした。クリスマスについてなど話し合いを持ちました。

2018年11月25日(日)
本日は、午後から大掃除でした。カーテンも取り外して洗いました。

2018年11月18日(日)

本日は、賛美礼拝と子ども祝福式、午後からは子ども芋掘り会がありました。

各会より自由に賛美曲を選び、賛美しました。
子ども祝福式では、0歳から小学校3年生まで子ども4人が集い、
牧師より手を置いて一人ひとりに祈りがありました。
芋掘り会では、畑を提供してくれた姉妹の芋畑で、大きな芋が次々に掘れて、
子ども達は歓声をあげていました。

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これまでの礼拝メッセージ

2019年1月6日(日)「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」
出エジプト33章14節、マルコ10章14節

新年礼拝は2019年度教団標語と聖句からの説教です。
標語は「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」このことは教団の危機、教会の危機を
示しています。教会が高齢化し将来へ不安を感じているからです。
また教会の使命が宣教であることを忘れてはいないか問われています。
教団委員長の水野晶子師の1月号の月報では
「2019年を迎えました。現代ほど、先がみえない、ビジョンがたてられない時代は
ないといわれています。何が起こるかわからない不安や恐れを抱えています」と。
しかしモーセはそのような時代神に祈り、重荷を負い、前へ進みました。
その秘訣は

1.神が共にいる臨在信仰(出エジプト記33章14節)

「わたし自身がいっしょに」と神がともにいると。私たちの神はインマヌエルの神で、
永遠の神です。その言葉には私たちの重荷を知り、負うことを意味します。

2.神が安息を与える信仰(出エジプト記33章14節)
若い人も老人も大きなストレスやプレシャーを抱えています。
若い人は特にそのようなもので押しつぶされ病気になる人も多いのです。
若いときに神を知ることが一番大切なことです。(伝道者12・1)
親も教育、スポーツも大切ですが、神を知ることが大切。

3.神の言葉で生きる信仰(マルコ10章14節)

教会では神の言葉が語られ、聖霊の働きがあります。
子どもや孫たちを愛するならばイエス・キリストのもとへ連れて行かなくては
いけません。迫害を受けてもです。それ以外に霊的な成長はないからです。
人間の人格的教育は聖書の言葉からなされていくものです。(マタイ4・4)

2018年12月30日(日)「幼子イエスをささげて」ルカ2章21~24節

今年最後の礼拝です。ルカ2章を通してイエスの父ヨセフと母マリヤの信仰を
ともに見ていきたいと思います。

1.「イエス」と名をつけた。(21節)
ヨセフは「イエスとつけなさい」と主の使いより言われその通りにしました。
(マタイ1章25節)
それゆえ、幼子は「イエスという名で呼ばれることになった」とあります。
神に従うヨセフがいます。イエス・キリストは後に言います。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることは
できません。」(マルコ10章15節)幼子のような素直な信仰が求められます。

2.律法を守りました。(22節)
両親はモーセの律法に従って、幼子を主にささげるために、エルサレムの宮へ
行きました。当時正しい人とは律法や儀式を守る人でした。
エジプトの奴隷であったイスラエルが、エジプトを脱出する最後の時に、
エジプト人の初子は神に殺されたが、イスラエルの初子は殺されないで
過ぎ越されました。
それを記念して、イスラエルのすべての初子を神にささげるという儀式を
していたのです。

3.犠牲をささげた。(24節)
ヨセフとマリヤは儀式のとき「山ばとと一つがい、または、家ばとのひな二羽」を
ささげました。(レビ12章)
この時、イエスは生かされましたが、当時ベツレヘムの2歳以下の男の子は殺されました。
私たちの救いにもイエス・キリストの十字架の犠牲があります。
我々の生は、そのように何らかの形で誰かの犠牲によって成り立っていて、
誰かの愛を受けてはじめて生きることができるのです。
どうか神と隣人に感謝する人生を。そして犠牲を伴うささげ物を神にささげましょう!

2018年12月23日(日)「インマヌエル」マタイ1章18~25節

メリークリスマス。待ち望みましたクリスマス礼拝です。
なぜ全世界で、そしてこの鈴蘭台の地でも共にお祝いするのか?
それは神の御子なるイエス・キリストが私たちのために地上においで下さった日であり、
クリスマスだからです。
二千年前、ダビデの町と呼ばれていたベツレヘムでお生まれ下さったお方は
二つの名前で呼ばれていました。それは、

1.「イエス」と呼ばれます。(21節)
ヨセフとマリヤに誕生した子に「イエスとつけなさい」と主の使いより言われます。
イエスとはヨシュアというへブル語名のギリシヤ語の形で「主は救い」という意味です。
それは罪から救う救い主であることを示しています。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と主の使いは
ヨセフに言います。ヨセフは「正しい人」(19節)ですが、しかし、
完全な正しい人ではありません。ヨセフ自身罪をもち、救い主が必要な人でした。
「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3・10)
全ての人に罪から救う救い主が必要です。

2.「インマヌエル」と呼ばれます。(23節)
「インマヌエル」とは「神が私たちと共に」という意味です。
人は孤独ではなく、神が共にいてくださる存在です。ヨセフはマリヤと離縁し、
責めを自分が受けようと思いました。しかしそれは孤独です。
そのことを防ぐためにも主の使いは「恐れないで・・迎えなさい」(20節)と言い、
神が介入します。私たちを罪から救い、共にいて下さる神の御子なるイエス・キリスト。
そのご降誕を共にお祝いしましょう。

2018年12月16日(日)「主は聖霊によりて宿り」マタイ1章18~25節

今クリスマスを待つ待降節の日々を過ごしています。
そして今「主イエス・キリストの誕生の次第」の箇所を読んでいます。
そこを読むと大変興味深いです。
そしてクリスマスの出来事は神の奇跡によってなされていることがわかります。
聖書は主イエスの誕生を「聖霊によって身重になった」(18節)と記しています。
まさにそこが大事です。

1.キリスト者の信仰告白として、告白されています。
キリスト者の信仰告白、使徒信条では
「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」と告白します。
マリヤの胎に宿った主イエス・キリストは、聖霊によりて宿っていたのです。
その証拠として
(1)聖書に証されている
(2)ヨセフはとまどい離縁しようと考えた
(3)イザヤの預言が成就した(イザヤ7-14)

2.神の奇跡の業です。
「聖霊によって身重になった」ことは、まさに神の奇跡のみ業で、
御子イエス・キリストが罪のない存在で生まれてきたことを示しています。
そして聖なる神性がゆるがないものであることも示しています。
それは人々を罪から救う者となるために必要なことでした。
イエス・キリストはすべての人の救い主(メシヤ)だからです。

3.新しい時代の到来です。
神が聖霊によりて受肉した以上、
今までの律法や、世の規則が支配したことの終わりを意味します。
新しい生き方が、み言葉に聞く信仰から生まれてくるのです。
律法の義ではなく信仰による義、恵みにより義とされる新しい生き方です。

2018年12月9日(日)「よみに床を設けても」詩篇139篇1~12節

聖書に示される神は自分のことをよく知っている神です。ダビデは言います。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っています。」(1)と。
神は多くの人の中からの自分を知っているのです。
そして聖書を通して私たちに語りかけているのです。

1.人はみな罪人であり、心に闇を抱えます。
ダビデはこう言います。
「私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」(8)
よみとは神のひかりが届いていない場所です。
しかしダビデはそこに神がおられると言うのです。
しかし多くの人はダビデとは違い、やみの世界のなかで光があることを知らず、
見えていないのです。
創世記1章では、
「やみが大水の上にあるところに神は仰せられた。
『光があれ』すると光があった。」(創1・3)と教えています。
このことはどんなやみでも光が差すというメッセージがこめられています。
ただ、人はそのひかりを見えていない人が多いのです。
イエス・キリストの弟子のユダのように、イエス・キリストと共にいて
心に闇を抱え続け、苦しみ続けるのです。

2.イエス・キリストこそ憐れみの光であること
イエスを裏切ったユダは、心の闇に、光なるイエス・キリストが
照ること、神のあわれみを知ることがなかったのです。
使徒信条に「主は・・十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」
とあります。
またヨハネの福音書では「すべての人を照らすそのまことの光が
世に来ようとしていた」とあります。
あなたの心を照らすために、まことの光、憐れみの光として来られたお方が
主なるイエス・キリストです。
その光は昔も今も輝き照らすことを止めません。

2018年12月2日(日)「」イザヤ書53章11~12節

日本人の4分の一以上がクリスマスは何をお祝いするか知らないと言われます。
本来クリスマスはChirstmasはCrist+mass
(キリストのミサ)つまりキリストを礼拝する時です。
クリスマスからキリストをとるとただのmass(集団・固まり)と
なってしまいます。集団で騒いで終わらせるのは空しいもののです。
そのためにはクリスマスの中心であるキリストを知ることは重要なことです。
キリストが人となられたのは事実で「この人であった」と。
イエス・キリストが人となられることは先に預言者であるイザヤが
預言していました。
キリストが人となられ、来られたのには大きな目的がありました。

1.神の子となる特権を与えるため(ヨハネ1・12)
人となられたイエス・キリストを救い主として信じるとき、
その権利が無条件に与えられるのです。

2.豊かな人となるため(Ⅱコリント8・9)
しかし、パウロはこう言います。
代りにイエス・キリストが貧しくなられたのです。

3.隣人にも注意を払うため(ピリピ2・4)
本来人は自分中心な者です。しかし自分のことだけでなく
他人のことも注意を払うようになり、愛を示します。
このために彼(イエス・キリスト)は来られたと預言者イザヤは
700年前から預言するのです。それは神の愛がそうさせていると言われます。
神は愛だからです。
今年のクリスマスはキリスト不在でなく中心にあるクリスマスで
ありますように。
神が人となられた目的を思い、その心を思いめぐらすアドベントの時と
しましょう。

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