ようこそ鈴蘭台福音教会へ☆

鈴蘭台福音教会のホームページにようこそ。
私たちの教会は、緑豊かな神戸市北区にある、
家庭的なプロテスタント教会です。
毎週の礼拝の他に、各種集会やイベント等を行っています。
教会は初めてという方も、どうぞお気軽にお越しください。
令和2年度より礼拝は三部制(9:30、11:00、16:30)で行っています。
第二礼拝はYoutube配信もあります。

今年度標語
「新会堂を目指して(2年目)」
今年度聖句
イザヤ書43章19節
「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」

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★2021.6.13 6月の教会カレンダーを更新しました。
★2021.4.4 今年度聖句を更新しました。

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礼拝メッセージ new!

2021年10月3日(日)「これはわたしの体、わたしの血」マルコの福音書14章22~26節

現在私たちの教会ではコロナ禍で聖餐式が開けずにいます。
そのような時ではありますが、聖餐の恵みを知るべきではありますし、
長きに渡り教会は儀式として守ってきました。この聖餐の恵みは
今も教会に存在します。

1.過越の恵みがあります。
「彼ら(弟子たち)は過越の用意をした。」(16)
過越の食事とは、過越の恵みを感謝し、忘れぬための食事です。
過越は、イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時
モーセによって率いられエジプトを脱出しますが、エジプトの王が認めず、
そこで神はさまざまな災いをエジプトの国に下します。
最後の災いでは、最初に生まれた初子がすべて神に撃たれて死にました。
しかし、イスラエルの家はすべて守られたのです。
そのことで神の災いが過越されたことを記念し、過越の祭があり、
食事をしたのです。
私たちも神からの救いを覚え、教会で聖餐に与るたびに、
自分のためにもなされたキリストの十字架を心に刻むのです。

2.イエス・キリストの命に与ります。
イエスは、パンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、
弟子たちに言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
(22節)
また杯を取り、「これはわたしの契約の血です。」(24節)

つまり、私たちは、この聖餐に与るたびにキリストの命に与るのです。
又、私たちの内にキリストが内住されるということでもあります。
キリストはへり下り、人の中に宿るのです。

3.救いの歴史が過去、現在、未来へと続きます。
教会の歴史は聖餐の歴史でもあり、救いのみ業は、これからも
なされていきます。キリストの教会が、今日でも存在するならば、
そこで聖餐式がなされていくならば、絶望の中に希望を見出すのです。
ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4・10)

2021年9月26日(日)「まさか私では」マルコの福音書14章12~21節

「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを
裏切ります。」と主イエス・キリストが言われた時、弟子たちはみな
「まさか私ではないでしょう。」と動揺をして言った。
19節には「悲しくなり」とあり、その言葉は10章22節の「悲しみながら」
立ち去った若い金持ちの青年と同じ言葉です。
その悲しみは永遠の命を失う言葉でもありました。
ここでは、

1.弟子たちも罪を持っていた。(19節)
「まさか私ではないでしょう。」と自分ではないとはっきり言い切れる弟子は
一人もいなかったのです。私たちも罪がないと言い切る人は一人もいません。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。
・・善を行う者はいない。だれ一人いない。」のです。(ローマ3・10~12)。

2.裏切り者の救いのため(ルカの福音書19章10節)
弟子たちは、収税人ザアカイ同様みな罪人でした。そのために罪の赦しが必要な者
たちです。私たちもあのイスカリオテのユダが人ごとでなくなる時、
イエス・キリストに一歩近づくのです。

3.裏切り者の罪を背負われた。(イザヤ書53章6節)
イエス・キリストはイスカリオテのユダに言われました。「人の子を裏切る
その人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
(21)と厳しい言葉をかけますが、生まれて来なければよかった者が生まれて
来てよかったと誇れるようになるために主イエス・キリストは裏切りの罪を一人で
背負われたのです。「しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」
私たちもその十字架の恵みに生かされ、前を向いて生きるのです。

2021年6月13日(日)「子どもの祝福」マルコの福音書10章13~16節

6月の第2聖日は花の日(子どもの日)の礼拝です。この日は19世紀末、アメリカの
日曜日運動の中から生まれた日で、教会に集まる子どもたち、この社会で育つ子どもたち
のために祈る日でもあります。緊急事態宣言のため、子どもたちが教会に集っては
いませんがしかし、そのことを覚えて祈りたいのです。

1.子どもを招くイエス・キリスト(14節)
子どもは弱く、小さく、病気にもなりやすいですが、無限の可能性をもち、また希望を
示すのも子どもたちです。イエス・キリストの弟子は子どもを低く見ていたため、
イエス・キリストが子どものことで手を煩わせては大変と思い、親たちが子どもを
イエス・キリストのもとに連れてこようとしたのを妨げたのです。
しかし、イエス・キリストはそのことを見て弟子たちを叱り、「子どもたちを、
わたしのところに来させなさい。」と招かれたのです。神の国、主イエス・キリストの
支配するところはこのような子どもたちが入ることができる場所です。

2.子どもを祝福するイエス・キリスト(16節)
イエス・キリストは子どもを愛し、祝福の祈りをささげるお方です。イエス・キリストは
子どもたちを抱き、手を置いて祝福したのです。とても麗しい関係です。そして、子ども
は無心で神の祝福を受け取ります。私たちも子どものように、無心になって神からの祝福
を求めましょう。ヤコブの言葉を思い出しましょう。「私はあなたを去らせません。
私を祝福してくださらなければ。」と。(創32・26)

2021年6月6日(日)「祈りの家か強盗の巣か」マルコの福音書11章12~19節

先週よりマルコの福音書の11章に入っています。イエス・キリストの一行はべタニアを
出てエルサレムに向かう途中の道にいちじくの木があり、その木をよく見るとその木は
葉のみでありました。この時期はいちじくのなる季節ではなかったのです。イエス・
キリストはその木を呪い、枯らせられたのです。イエス・キリストの振る舞いは
不自然な行動です。
しかし、このことと後のエルサレムでの宮きよめの出来事とは密接な関係があるのです。

1.教会は祈りの家(17節)
イエス・キリストはイザヤ書56章7節のみ言葉を引用して、神殿は強盗の巣ではなく、
祈りの家であると教えたのです。そのため宮きよめをイエス・キリストはされました。
現代のキリストの教会も祈りによって建て上げられるものです。ですから私たちは教会で
祈ることの大切さを教えられます。しかし、祈りは楽しい祈りもありますが、痛みを
覚えて祈る祈りもあります。私たちのキリストの教会は今、祈りの家、祈りの教会と
なっているでしょうか。

2.教会は神のもの(17節)
エルサレムの神殿で商売をしている人たちがいて、イエス・キリストは宮きよめを
されました。私たちも「教会は人間のもの、私のものだ」と考えやすいものです。
イエス・キリストの宮きよめをし、「強盗の巣」という告発を祭司長たちは、
自分たちに向けられていると知り、反感をもち律法学者たちとともにイエス・キリストを
殺そうと相談するのです。この後、捕らえられ、イエス・キリストは十字架に
かかられたのです。

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連絡・報告 new!

2021年5月2日(日)

●体の弱さを覚えておられる方のためにお祈りください。特に高齢でご入院中の方を覚えてお祈りください。
●新会堂建築(教会の設計)のためにお祈りください。

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