ようこそ鈴蘭台福音教会へ☆

鈴蘭台福音教会のホームページにようこそ。
私たちの教会は、緑豊かな神戸市北区にある、
家庭的なプロテスタント教会です。
毎週の礼拝の他に、各種集会やイベント等を行っています。
教会は初めてという方も、どうぞお気軽にお越しください。

2022年3月27日(日)以降の礼拝について
蔓延防止等重点措置が解除されましたので、2022年3月27日(日)以降の
礼拝は集会形式で10時半~(YouTube配信あり)と、16時半~の2部制となります。
水曜日の聖研祈祷会も集会形式で実施します。

今年度標語
「神の語りかけの中に生きる年(新会堂を目指して3年目)」
今年度聖句
詩篇119篇105節
「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」

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★2022.5.8 5月の教会カレンダーを更新しました。
★2022.4.1 4月の教会カレンダーを更新しました。

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礼拝メッセージ

2022年5月15日(日)「イエスの時代」ルカの福音書3章23~38節
イエス・キリストが公けの活動を始められたのはおよそ三十歳のときです。
それまではヨセフの子として生きていましたが、このときから神の子として活動される
こととなります。この3章23~38節のところを通して、

1.系図の必要性
マタイの福音書1章とルカの福音書には、イエス・キリストの系図が記されています。
このことは、イエス・キリストは架空の人物ではなく、この世に確かに存在していた
ことを証明しています。私たちも系図のない人はいません。私たち一人一人も神の
ご計画のなかで生まれ、神に生かされている存在です。

2.ヨセフはエリの子で
「ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で」(23)とあります。
マタイ1章では、ヨセフの父はヤコブとありますが、このルカ3章で、ヨセフの父が
エリ(ヘリ)となっているのは、エリがヨセフの義父で、その子がマリアであること
に目を向けているからです。すなわち、マタイの福音書の方の系図はヨセフの系図と
して書かれていますが、ルカの福音書の方の系図はマリアの系図としても書かれて
いると言えるのです。ルターもそのことについて考えていました。
また「ヨセフの子と考えられていた」という箇所は、イエス・キリストがヨセフの
実の子ではないが、実の子として育てられたことを意味しています。
私たちの信仰告白にあるとおり「主は聖霊によって宿り、処女マリヤより生まれ」
なのです。

3.救いは全世界の人々のため
ルカの福音書の系図では「アダム、そして神に至る」とある一方、マタイの福音書
では始まりはアブラハムからです。ルカの福音書の系図では、最初の人アダムから
記すことで、イエス・キリストの先祖が、肉によれば、人類の父であるアダムまで
辿ることができることを示しています。著者ルカは、イエス・キリストが神の子で
あり、救いがユダヤ人だけではなく全世界の人々のためであることを強調している
のです。

2022年5月8日(日)「あなたの母を敬え」出エジプト記20章12節
本日は五月の第二聖日であり、母の日の礼拝で十戒の箇所を開きます。
十戒は第一から第四の戒めまでは神との関係です。
そして、第五から戒めが人との関係で、その一番先に「父と母を敬え」(20・12)が
あります。その戒めを通して、

1.抵抗のある十戒の言葉(20章12節)
人間関係の中で親と子の関係は複雑です。そしてこの戒めは敬えとあり命令形です。
ですからこのみ言葉に抵抗をもつ人も多いのです。しかし、十戒にあるということは
必須であり、決して無視できないことでもあるのです。

2.パウロが引用した言葉(エペソ人への手紙6章2節)
エペソ人への手紙6章で使徒パウロは十戒を引用しています。
しかし、そこには「主にあって」とつけたしています。本来人は権威ある者に対しては
反抗するものです。その命令が神の命令だとしても素直に聞くということは簡単では
ありません。現代においてはさらに難しいことでしょう。
だから、その戒めを守るには、主の助けが必要であり、仲保者なる御子イエス・キリスト
が必要です。

3.正しいこと(エペソ人への手紙6章1節)
パウロは「これは正しいことなのです。」と言い切ります。
そして、その戒めを守る者が「幸せになり」(エペソ6・3)というのです。
私たちキリスト者は律法主義にはなってはいけませんが、律法を破るとき、
罪を犯した罪人であると自覚し後悔したり、悲しむことになります。
そして自分もイエス・キリストの救いが必要な者であるということを示されます。
そして、罪のない生活とは平和な穏やかな生活です。
神はそのことに私たちを導こうとされています。

※本日は下記の表題で、鍋島猛師にメッセージをして頂きました。
2022年5月1日(日)「限りない神の愛」ヨハネの福音書3章16~21節
毎朝、白木箱の神棚を拝んでいた建材会社の社長K氏に、ある日、教会学校に
行っている小学校二年生の長男が、「父ちゃんの神さまは小さいな。
天と地を造った神さまは大きいから、そんな小さい箱には入れないと思うよ」
と言いました。

K氏は、感じるところがあって、こっそり教会に行って説教を聞き、
神は全知全能で、天と地を造り、賢くて喜怒哀楽を持ち、歴史や人の一生を
計画される、聖と義と愛のお方であることが分かりました。

ある日、K氏は、「神の十戒」の「嘘を言ってはならない」を学んで、
納品書にプラスターと書いて、石灰を混ぜたことなどを思い出しました。
そして、これは神に対して罪を犯しているのだ、自分は神の前に罪深い、
滅びの道を歩む、汚れた哀れな人間なのだということに気がつきました。

K氏は、神に対する罪は、どんなに真面目に生きても、又、百倍の弁償をしても
赦されないこと、神への罪は、神しか赦すことができないことが分かりました。
だから神は、神である独り子イエスを世に与え、世のすべての罪を負わせ、
十字架刑に処してその罪を罰し、それによって世のすべての罪を完全に、永遠に、
赦されました。そしてこれはK氏自身への神の究極の愛でもあることを感謝し、
悔い改めて十字架を信じ、救われました。[ヨハネ3:1-3]のニコデモのように。

今日、この愛はウクライナにもロシアにも注がれています。そして、あなたにも!

2022年4月24日(日)「三位一体の神」ルカの福音書3章15~22節
主イエス・キリストは公での活動前に、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたの
です。イエス・キリストは罪なき神のひとり子でありながら、
罪人が受けるバプテスマを受けられたのです。
この出来事を通して現代の私たちにも神のみこころを示しています。

1.徹底的にへりくだられた主イエス(21節)
洗礼(バプテスマ)とは罪人が受けるものです。しかし、全く罪なきお方が
受けられたのです。バプテスマのヨハネより、神が人となられただけでも
大いなるへり下りなのに罪人としてバプテスマを受けられたのです。
イエス・キリストの徹底的なへり下りです。バプテスマのヨハネはその前に
このように言います。「私はその方の履物のひもを解く資格もありません。」
(16節)と。このことは私たちにへり下る者に神の恵みがあることを教えています。
アンドリュー・マーレ―は『謙遜』という本を出されています。
その書の中に、私たちを謙遜に至らせる動機の一つに、
「人の子としてのイエスのうちに見ること」とあります。

2.天からの声を聴く主イエス(22節)
バプテスマのヨハネより洗礼を受けるとき、天から声がしました。
「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(23)
この言葉は王の即位の時に使われる言葉(詩2・3)それに「愛する」という
言葉が含まれていました。その前には「聖霊が鳩のよう形をして、イエスの上に降って
来られた。」ともあり、イエス・キリストの公けでの宣教活動は、人の子としての
イエス・キリストの働きだけでなく、三位一体の神ご自身の働きでもあったのです。
それより大いなる奇跡の出来事が続くのです。
そして、私たちキリスト者が信じている神は三位一体の神です。

2022年4月17日(日)「復活信仰を」ヨハネの福音書20章1~18節
イースターおめでとうございます。
日本においてはイエス・キリストの教えには関心を持っていても、
十字架に架かった後、三日後、復活したことそのことをなかなか理解できません。
しかし、キリスト者はイエス・キリストの復活があるから、希望をもつことが
できるのです。この聖書箇所では、三つのポイントがあります。

1.キリストの復活の出来事は歴史的事実です。
イエス・キリストの復活の出来事はマグダラのマリアが見ていました。
当時女性は証人として認めてられていませんでした。しかし、ヨハネは、
女性たちを登場させています。コリント人への手紙第一十五章では、
五百人以上の方が復活されたイエス・キリストに出会ったことを
使徒パウロは記しています。(15・3~8)

2.復活の力は弱いところに働かれます。
最初に会ったのもマグダラのマリアであり、女性たちです。弟子たちはガリラヤに
戻ってしまった、不信仰な弟子たちです。復活の力は一人一人に与えられ、
弱さの中に働かれる主なるイエス・キリストの恵みを覚えましょう。
そしてヨハネはマグダラのマリアに対して神の愛と優しさを覚えます。
墓の中で泣いていたマリアに二人の御使いが現れ、「なぜ泣いているのか」と。
ヨハネの福音書では一人一人、復活されたイエス・キリストとの出会いを大事に
記します。

3.弟子たちは復活をどのように話したか
迫害があってもイエス・キリストの復活、昇天、そして再臨を伝えたのです。
そして復活の恵みを教会員どうし分かち合いをすることが更に大切です。

2022年4月10日(日)「子ろばに乗ってエルサレムへ入る王」マルコの福音書11章1~11節
私たちの人生には絶妙なタイミングの助けがあります。
それが主の助けかどうかはわからないが、しかし、自分自身が理解していない中で
神の助けがあったことはあるはずです。今日は棕櫚の聖日で、イエス・キリストが
子ろばに乗りエルサレムへ入場され、その日より受難週となり、金曜日には十字架に
かかり、次の日曜日の朝には復活されるのです。この一週間で多くの出来事がなされ、
多くの人を巻き込む週となるのです。イエス・キリストがエルサレムに入場されるに
あたり、王が用いる軍馬ではなく、子ロバに乗って入場されるにも意味があり、
その意味とは、そして私たちの主イエス・キリストはどのようなお方か、深く知る時
としましょう。

1.イエス・キリストが必要とされた子ろば(2節)
イエス・キリストがエルサレムへ入場されるにあたり必要とされたのは子ろばであり、
弟子はその調達でさまざまな奇跡をみることになります。主は備えたもうお方であり、
主イエス・キリストの言葉に従うとき奇跡をみることになるのです。

2.謙遜なお方として(7節)
王が乗る軍馬でなく、子ろばに乗るとは。それは、イエス・キリストが権力者、
戦う王として存在するのではなく、謙遜で、父なる神のみ心に従う神の子の姿を
暗示しています。謙遜こそ平和の徴、勝利の証しであり旧約時代のヨナタンの子
メフィボシェテからも学ぶことがあります。そして、旧約時代の預言者ゼカリヤの
預言を成就するためでもあります。(ゼカリヤ書9章9節)
どうか、イエス・キリストに倣い、謙遜でつねに主の言葉に従う従順な者となれます
ように。それが神の願いです。

※本日は下記の表題で、岡崎孝志師にメッセージをして頂きました。
2022年4月3日(日)「神の愛と神への愛」ヨハネの福音書21章15~19節
あなたはどのような時に神の愛を実感し、また神への愛にお答えされる方と
なられるでしょうか。
二千年前、イスラエルのガリラヤ湖で、主イエスの弟子たちは、復活の主と
再び出会いました。

岸辺で朝の食事のあと、主はペテロを見つめ、問われました。
「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」と。
三度繰り返された問いと答えでした。そのペテロの思いは、一週間前の、
三度にわたる裏切りと関係なくはあり得なかったでしょう。
主の十字架刑の前日のあのことを。問われたときには、逃げ出しさえしたかった
でしょう。

私はと言えば、逃げ出しました。十九歳の私は塩屋の神学生でした。
召しに答えて献身、しかし初日から校舎を覆う聖さに、後悔の毎日。
自分の穢れ、固い自我と高慢さに絶望し、自転車で逃げたのです。
神学校はそれでも私を許してくださった。やがて、ローマ書六章で、私は、
キリストと共に死に神に生きる、聖霊によって歩むと救いを見出しました。

卒業し相生市で伝道師。しかし何度もこの恵みの主と聖霊に逆らう自らを知り、
不安に苦悩しました。しかし、その者を全くさげすまないある婦人宣教師が告げました。
「そのままのあなたを、神は愛しておられる」と。

信仰による義と主の愛を学び直し、深い不安は生きる喜びになっていきました。
最も罪深いと知ったペテロが答えました。「はい、主よ。私があなたを愛して
いることは、あなたがご存じです。」

きっとその時、前に聞いた主の言葉の「誰よりも多く罪赦された者は、誰よりも
多く愛する。」を思い起こしていたに違いないでしょう。罪深さを知った人の心です。

主は、そのままのあなたを愛しておられます。
「わたしの羊を飼いなさい。」
このみ言葉は四十年間、私を導いてくれました。

2022年3月27日(日)「荒野で叫ぶ者の声」ルカの福音書3章1~9節
バブテスマのヨハネは、ルカの福音書では誕生から書かれており、特別な存在として
みられています。そして3章で、ローマ皇帝の名、ユダヤの総督の名があげられており、
個人名を出すことで、その年代を示すことができます。
皇帝ティベリウスの治世は紀元前28年から29年で、
その当時のユダヤの地の領主はヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティバスです。
その時に神は荒野で、ヨハネに臨んだのです。

1.荒野で叫ぶ者の声(4節)
「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」(4節)
預言者イザヤの預言が成就する時でもありました。
その声が多くの人々の耳に届いていたので、彼のもとに多くの人が集まり、
バブテスマ(洗礼)を受けたのです。イザヤの預言は今、全世界に広がっていって
います。キリスト教の歴史は神の御子イエス・キリストを信じる者を通して
なされます。「主の通られる道」とはイエス・キリストのことを指します。
そして、バブテスマのヨハネは、次のように言います。

2.悔い改めの勧め(8節)
「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と、彼は、自分も含め、
すべての者が悔い改めが必要な罪人であることを神から示されていたのです。
パウロもローマ人への手紙で言います。「義人はいない。一人もいない。」
(3章10節)と、人間であるかぎり、「罪の支配」から自由ではありません。
彼は人々に悔い改めを求め、主の道を用意をして、人々に示されたのです。
その呼びかけを自らの召しと捉え荒野で声を上げたのです。
イザヤの預言とメシア到来の道筋がここにつながったのです。

2022年3月20日(日)「福音を宣べ伝えよ」マルコの福音書16章9~20節
本日の聖書箇所はマルコの福音書の最後、結びの箇所です。
元々のマルコの福音書にはなく、後から書き加えられた箇所でもあります。
11人の弟子たちが食事をしている際に復活されたイエスが現れます。
その時、弟子たちの不信仰と頑な心をお責めになられたとあります。

1.不信心な者に現れたイエス(14節)
確かに弟子たちをお責めになりましたが、復活されたイエスは彼らをお見捨てには
ならずに現れてくださったのです。またパウロは、ローマ人への手紙5章6節に
「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たち
のために死んでくださいました。」とあります。弟子たちだけでなく、私たちも、
不信仰と頑な者です。
しかし、復活されたイエスを通して信じる者と変えてくださったのです。

2.大宣教命令を受けた弟子たち(15節)
マルコの福音書16章では、マタイの福音書28章と重なり、信じない者が
信じる者に変えられるとあり、即宣教への命令が下ったのです。
そのことは信仰者の使命ということです。

3.全世界に出て行く弟子たち(15節)
この大宣教命令は、「全世界」です。この命令のゆえにキリスト教は日本にも
全世界に広がりました。キリスト者はみな海外へ宣教師として行きなさいとの
命令ではありません。福音の喜びに生き、聖霊に満たされて、隣り人へ愛をもって
福音を宣べ伝えていくことが大切です。隣り人も全世界に含まれていることは、
言うまでもないことだからです。

2022年3月13日(日)「神の御子の葬り」マルコの福音書15章42~47節
使徒信条に「十字架につけられ、死にて葬られ陰府にくだり」とあります。
「葬られ」とありますように、イエスの死んだ体は墓の中に横たえられ、
アリマタヤのヨセフに引き取られたとあります。十字架の刑の犯罪者は、
死体のまま放置されることもあり、ヨセフはピラトに願い求めたのです。

1.勇気を出したヨセフ(43節)
「勇気を出してピラトのところへ行き」(43)とマルコの福音書は、
他の福音書にない一つの言葉を加えています。それは、「勇気を出して」という言葉
です。ヨセフは自分がイエスの弟子であることを隠していました。それは、自分が
サンヒドリンの議員でしたが、大祭司を始め、ユダヤの政治の中心にいた人たちは、
イエスを殺そうとしたからでした。議員の立場がなくなるかもしれないと思ったかも
知れません。しかし、勇気を出しピラトのところへ行ったのです。
通常、処刑された人の遺体を引き取るのは、遺族です。
つまりそのことでイエスの弟子であることを公に明らかにしたのです。

2.最も大切なものを知ったヨセフ(43節)
自分の地位や立場よりも大切なものを知ったヨセフは、イエスを大切に思い、
この方に従うことを実行しました。私たちは信仰者であっても従いきれず弱い存在です。
私たちにとって一番大切なことはなんでしょうか。
それを知ったら勇気を出して実行しましょう。

3.復活の備えをしたヨセフ(46,47節)
ヨセフがイエス・キリストを墓に納め、墓の入口には石を転がし封じました。
その様子をマグダラのマリアと、ヨセの母マリアが見ていました。
それゆえに日曜日の朝早く、イエスの墓の場所を知り、行くことができ、
復活の証人となったのです。遣わされた場所で主の復活の証人となりましょう。

2022年3月6日(日)「キリストの死の出来事」マルコの福音書15章38~41節

2022年2月27日(日)「十字架上のキリスト」マルコの福音書15章23~37節
主イエス・キリストは十字架にどのようにつけられたのか。
十字架を背負わされ、くぎを打たれ、当時はローマ市民ではその刑はなく、
極悪人か政治犯しかかかることのない十字架に主イエス・キリストは
つけられたのです。そして、午前9時から午後3時まで苦しみを受けながら
最後のときを迎えたのです。

1.何の弁解もせず黙ってその苦しみを耐えた主
当時痛みをやわらげる没薬を含めたぶどう酒をも受けず、苦しみを受けられた
主イエス・キリスト。旧約の預言が成就するため(イザヤ書53章)と、
苦しみを受けた者の救い主となるために。
「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを
助けることができるのです。」(ヘブル2・18)

2.神に捨てられた主
イエス・キリストは最大の苦しみのなか、沈黙を破り叫びます。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。
この叫びは神に向かっての叫びです。神に見捨てられた痛みを受けた
イエス・キリストです。そのことは人間の負うべき罪の大きさを感じ、
それを負われました。使徒パウロはこのように言います。
「神は、罪を知らない方をわたしたちのために罪とされました。」と。
(Ⅱコリント5・21)
神の壮大な計画のなか、私たちを救うため罪のないひとり子なる
イエス・キリストは十字架につけられ、私たちの身代わりに裁かれ、
捨てられてくださったのです。私たちも人から無視されたり、
軽蔑されたりするとき、痛みを受けます。しかし、このときの
イエス・キリストの痛みは筆舌に尽くしがたいものです。

2022年2月20日(日)「ねたみの問題」マルコの福音書15章10節
主イエス・キリストはなぜ十字架につけられたのか。この問いは、
誰の信仰生活においても重大な問題です。
エルゲン・モルトマンは『十字架につけられた神』の著で、三つの理由があると
言っています。
①イエスと律法の観点で
②イエスと暴力との関係から
③「イエスの神」の関係から
しかしこれらの三つの理由でまだ言い尽くされていない理由として
10節のみ言葉があります。ピラトは、祭司長たちがイエス・キリストを
十字架にかけるために引き渡したのは、「ねたみ」のためだと分かっていた
のです。つまり、イエスと人間の罪の観点から言うと、主イエス・キリストが
十字架につけられたのは、

1.祭司長たちのねたみ
これは、人間の大きな問題であります。創世記4章のアベルとカインの事件も
その中心に「ねたみ」があるのです。彼らの父母アダムとエバの堕罪のことをも
「神のようになって」(創3・5)とあり、神に対する「ねたみ」の問題でも
あったのです。

2.私たちの「ねたみ」の罪
アダムとエバ、そして、カインのねたみは私たちの「ねたみ」でもあります。
「ねたみ」の問題はガラテヤ人への手紙5章20節に肉のわざとして
「そねみ」があります。「そねみ」は現代人の病気でもあるのです。
その問題を解決する必要があるのです。そのためにパウロは
「自分の肉を、・・・十字架につけたのです。」と言い切ります。
ですから私は世につく者ではなく、キリスト・イエスにつく者となるべきです。
十字架にかかられたのは、私の「そねみ」のためであることを知り、
御霊の働きにより、世につく者ではなく、キリスト・イエスにつく者とされる
ことです。「ねたみ」の問題は、大切な要因です。砕かれましょう。

2022年2月13日(日)「十字架を負うクレネ人シモン」マルコの福音書15章21~22節
私たちの目を引くのは、ローマの兵士たちのイエスに対するあざけりの行為で、
その衣を着せて、十字架につけるために連れ出しその途中、ローマの兵士たちは、
通りかかったクレネ人シモンに十字架を負わせたのです。そのことを通し、

1.偶然ではない(21節)
クレネ人シモンがローマの兵士より十字架を無理やり背負わされたのは
予定されたことではなく、ちょうど「通りかかった」とあるように、
その出来事にも神の選びと導きがあったのです。

2.十字架を背負うクレネ人シモン(21節)
イエスの十字架を背負うことになった人は、クレネ人シモンのみであった。
十字架刑に処された者は、自分で十字架を負って刑場まで行かなければならず
ピラトの官邸からゴルゴタの丘までの道のりを重い十字架を背負い行くイエス、
途中倒れたためにクレネ人シモンが背負うこととなった。
シモンは無理やり十字架を負わされたことで、イエスに出会い、つながりを
もつことになったのです。私たちとイエスとのつながりも自分から願った人々
もいますが、願わずに出会いがあった人々もいます。
また十字架を背負うような苦しみ、痛みを経験する人もいます。

3.シモンと家族の救い(ローマ人への手紙16章13節)
イエスは、言われました。「だれでもわたしに従って来たければ、
自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
(マルコ8・34)今日はクレネ人シモンにとっては、散々な日でした。
遠い地から来て、十字架を背負わされ、憤慨したことでしょう。
しかし、このことでイエスにつながり、後、シモンとその家族は
神の救いを受けたのです。

2022年2月6日(日)「十字架につけよ」マルコの福音書15章1~15節
本日からマルコの福音書15章に入ります。イエス・キリストは縛られて
ピラトのもとに引き渡されました。ピラトの前では、

1.イエス・キリストの沈黙
ピラトが不思議に思うほどイエス・キリストは、沈黙を守られました。
その時、聞こえてくるのは人間の声だけです。イエス・キリストは、神であり、
人の子であります。ピラトは「何も答えないのか。」と尋ねますが、沈黙します。

2.「十字架につけろ」の叫び声
ピラトは祭りのたびに人々の願う囚人一人を釈放していました。
当時バラバという暴徒で人殺しをした人、祭司長たちはバラバを釈放して
イエス・キリストを十字架につけるように群衆を扇動しました。
そして人間の声はしだいに高まり、「十字架につけろ。」と叫び声になります。
確かに地上では、人々の声が勝ち、イエス・キリストは敗れました。
しかし、天上ではイエス・キリストの敗北こそ勝利の徴(しるし)です。
なぜなら彼(イエス・キリスト)を砕くことは父なる神のみ旨であった
からです。主の沈黙により、主の十字架により、私たちの罪を負われたのです。
ここに愛があります。アガペーの愛です。あわれみの愛です。
「マルコはイエスの最期を個人的な感情をできるだけ抑えて記し事実のみを
力強く描写している。その迫力はすごい。」(泉田昭)
ピラトは群衆の叫びに負けて、囚人バラバを釈放し、イエス・キリストを
十字架につける決定を下した。釈放されたバラバとは、私たちのことです。

2022年1月30日(日)「イエスの言葉を思い出し」マルコの福音書14章66~72節
兵庫県にまん延防止適用となり、先週より礼拝をオンライン礼拝とすることにしました。
マルコの福音書14章66~72節では弟子のペテロが三度イエス・キリストをしらない
と言ったところです。その箇所を通して教えられることは、

1.ペテロの臆病、弱さ
死んでもあなたを否まないといったペテロのこの出来事は人間の弱さを覚えます。
しかし、その後、破滅に向かおうとするペテロを引き留めたのはイエス・キリストの言葉
でした。ペテロの良心でもなく、イエス・キリストの言葉です。
「まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
(30)
このイエス・キリストの言葉を思い出したからです。人間は弱く臆病な者ですが、
主イエス・キリストの言葉を聞くとき、愛と力を得るのです。

2.悔い改めの涙
ペテロは泣きます。後悔の涙ではなく、悔い改めの涙です。イエス・キリストの言葉を
思い出して泣き崩れたのです。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。
神よ あなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51篇17節)
主に向かっての悔い改めの祈りや涙を主は覚えてくださいます。
そして、イエス・キリストのガリラヤでの最初の宣教、「時が満ち、神の国が近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい。」(1・15)この言葉をいつも覚えて主から聞く必要が
あります。福音とは良きニュース。イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。

2022年1月23日(日)「わたしが、それです。」マルコの福音書14章53~65節
兵庫県にまん延防止等重点措置が適用されることとなり、本日から2月20日の
礼拝までをオンライン礼拝とすることにしました。ご理解ください。
昨年に続きマルコの福音書から説教致します。
14章53~65節では弟子のユダに裏切られ、イエス・キリストは捕らえられ、
大祭司のところへ連れて行かれます。その後、祭司長たちと最高法院でイエス・
キリストを死刑とする試みが話し合われます。

1.正当な証言を見出せない(55~57節)
イエス・キリストを死刑とする正当な証言を得ようとしますが、得ることが
できなかったと聖書は示します。最高法院は当時公的な議会であり、
裁判の手続がなされていた場所でした。律法では死刑に価するためには
二人、三人の証言の立証が必要で(申19・15)また、多くの者がイエス・
キリストに対して不利な証言をしても偽証とされたとあります。(56)
イエス・キリストは一つの罪をも犯さなかったお方です。
預言者イザヤも預言しています。「彼は不法を働かず、その口には
欺きはなかった。」(イザヤ53・9)

2.イエス・キリストの告白(62節)
イエス・キリストはしばし沈黙のなか(イザヤ53・7)、
大祭司の「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」との問いに答えます。
「わたしが、それです。」と。この告白が死刑判決の決め手となったのです。
それは審問席にいる人たちをもその罪を赦し、救う言葉でもあったのです。
「イエスという存在は人間のものさしでは測れません。」(杉田太一師)

2022年1月16日(日)「あなたがたと一緒に」マルコの福音書14章43~52節
昨年に続きマルコの福音書から説教致します。14章43~52節では裏切られる
イエス・キリストの落ち着きと裏切る人々の動揺が鮮やかに表現されます。
ここで不信仰な弟子たちの恐れと愛なるイエス・キリストが存在しています。

1.不信仰な弟子たちの恐れ(50~51節)
私たちは強く見える方も皆恐れの心を持っています。イエス・キリストの弟子たち
は、皆イエス・キリストを裏切ることになります。特にユダがそうです。
「なぜ裏切るのか」と問われたら不信仰しか答えるしかない。
私たちキリスト者もいつも主イエス・キリストを信頼できるかと言うと、困難かも
しれません。マルコの福音書はマルコが書いたと言われます。この裸で逃げた青年は
マルコだと言われています。(52節)

2.愛なるイエス・キリスト(43~49節)
ここに動揺しないイエス・キリストがいます。「愛には恐れがありません。」
(Ⅰヨハネ4・18)
イエス・キリストは人々たちに言います。「わたしは毎日、宮であなたがたと
一緒にいて教えていた」(49)と。
私たちの神はインマヌエルの神で、神は私たちとともにいてくださるのです。
また主イエス・キリストを信じる者に聖霊が与えられます。聖霊は愛です。
聖霊に満たされる時、イエス・キリストの愛で満たされます。完全な愛には
恐れがありません。どんな状況でも恐れのない人生をキリスト者は過ごすことが
できるのです。パウロは祈ります。
「内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」
(エペソ3・16)と。

2022年1月9日(日)「今こそ、次世代の宣教と信仰継承を」ヨシュア記1章9節
本日礼拝は2022年の教団標語と聖句からの説教となります。
ヨシュア記1章では約束の地(カナン)にエジプトから脱出したイスラエル人の
指導者のモーセの死後、後継者としてヨシュアが主に選ばれ、み言葉が与えられ
ました。そのみ言葉が2~9節であり、そのなかで9節が教団にこの年与えられた
み言葉です。そのみ言葉を通して

1.何に恐れがあるか(7~9節)
「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。」とありますが、
モーセのように自分は指導者としてできるかどうか。約束の地ではそこに住む人々と
戦わなければいけないのです。そのカナン人に対してか。確かにそれらが原因で
あるかもしれないが、7節にあるように「律法のすべてを守り行うこと」
「右にも左にもそれてはならない」正しい道を歩むことができるか。
自分自身の内にある主への信頼と信仰がなくては恐れてしまいます。
私たちキリスト者もこの年、予測できない事柄が起こっても、
主への信頼と信仰がなくならないように気をつけたい。

2.主がともにいる恵みのなかで前進する(9節)
「主があなたとともにおられるのだから」とのみ言葉は、真理であり、
現代にも主は語り続けているメッセージの一つです。
聖書の神は、私たちの神であり、インマヌエルの神であることを。
このことは主の恵みであること、そして主は私たちキリスト者が前を向いて
前進することを求めています。そこではさまざまな霊的な戦いがあるかも
しれませんが、主を信じる者には主の約束があり、圧倒的な勝利者となる
ことができます。(ローマ8・37)イスラエルの民が約束の地(カナン)に入った
ように。また、次世代への宣教と信仰継承をも挑戦しましょう。

2022年1月2日(日)「神の語りかけの中に生きる年」詩篇119篇105節
本日は新年礼拝、教会の標語と聖句より語ります。標語は「神の語りかけの中に
生きる年」で聖句は、詩119篇105節です。

1.み言葉を聞くこと
少年サムエルは、祭司エリより「主よ、お話しください。しもべは聞いて
おります。」と言いなさいと、言われ、その通りに「お話しください。
しもべは聞いております。」と言ったとあります。(Ⅰサムエル3・9,10)
私たちは常に心を開き、聞く姿勢を持つ必要がいります。
主イエス・キリストも言います。「みなわたしのいうことを聞いて、悟りなさい。」
と。(マルコ7・14)

2.神に愛されていることを実感すること
神の語りかけを聞くとき、正しい道を示してくださると同時に、神の愛を覚える
ことが出来ます。絶望の中にいたエリヤにも主のことばがありました。
「エリヤよ、ここで何をしているのか」と。(Ⅰ列19・9)
神の語りかけを聞く時、そこから神との交わりが生まれ、歩むべき道を示され、
神が導き手であり、愛なるお方であることを実感できるのです。
神は私たちを創造されたお方であることを忘れず、私たちを大切にしてくださって
いることをいつも覚えたい。
時には神の語りかけが、「かすかな細い声」(Ⅰ列19・12)であっても
聞きもらさず、敏感にキャッチできるよう心がけたいものです。
また神の語りかけをマリアのように思いをめぐらす者でありたいです。
(ルカ2・19)新しい年、一人一人が2022年が「神の語りかけの中に
生きる年」となれますように祈ります。

2021年12月26日(日)「息のあるものはみな」詩篇150篇1~6節
本日の礼拝は年末感謝礼拝です。詩篇の一番最後の詩篇で短いですが、
この箇所より説教いたします。先週は1年ぶりに教会の礼拝で聖餐式をもち、
主の十字架のあがないの恵みを覚えて感謝いたしました。
詩篇150篇を通して、

1.礼拝の中で賛美をささげる(1節)
「神の聖所で 神をほめたたえよ」(1)と、神の聖所は現代では
教会であり、礼拝のなかで神をたたえることの重要性を詩篇の作者は伝えています。

2.神のみ業を賛美する(2節)
「大能のみわざ」と2節にあり、神のみ業はまさに大能です。
すべての人の救いのために神のひとり子を犠牲にし、そのみ業をなされました。
神のひとり子であるイエス・キリストの十字架の行為はすべての人の罪の贖いで
あり、神の大いなる恵みです。
罪人である者が罪赦され、神の子とされること。低き者が神により高くされる
こと。この大いなる恵みはすべての人にすでに与えられているのです。
私たちはそのことを感謝し、神をほめたたえることを神は求めておられます。

3.最後の息に至るまで(6節)
先日ある兄弟の告別式に出席しました。
その方はキリスト者で最後の日まで日記を書いていたそうです。
詩篇の作者は「息のあるものはみな主をほめたたえよ、ハレルヤ」と
うたっています。誰が賛美するのか、息のあるもの(人間)です。
最後の息に至るまで救い主イエス・キリストの恵みを知る者は神をほめたたえて
いきたい。神は賛美されるべきお方だから。
工藤弘雄師は著書『詩篇とともに歩む日々』のなかで、「詩篇150篇は
詩篇における究極の賛美です。」と紹介しておられます。

2021年12月19日(日)「あなたがたのために」ルカの福音書2章1~20節
マタイの福音書では、みどりごイエスの誕生を祝う者は、東方からの博士たちですが、
ルカの福音書では羊飼いたちです。羊飼いたちは当時のユダヤ社会では貧しい者たちで、
他の人々から蔑まれていました。
しかし、羊飼いたちに主の使いが「彼らのところに来て」(9)とあります。
羊飼いたちは神への信仰と羊のために夜番する愛がありました。
羊飼いたちへ

1.「恐れることはありません。」との言葉(10節)
この言葉は主の御使いの言葉です。人は誰しも恐れがあります。
自分は周りの人に受け入れてもらっているか、自然災害の恐れ、新しいウィルスへの
恐れ、死の恐れです。神はいつもそのような恐れやすい人に「恐れることはありません」
と声をかけてくださるお方です。

2.救い主を見た。(16節)
貧しい羊飼いたちは救い主と出会うことができました。この救い主はイエス・キリスト
です。この誕生がクリスマスです。この救い主イエス・キリストは、羊飼いたちの
救い主であり、東方の博士たちの救い主であり、私たちの救い主でもあるのです。

3.喜びと賛美がうまれた。(20節)
「羊飼いたちは、・・・神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20)
羊飼いたちはこのみどりごが自分たちの救い主であったことで内に喜びがあふれ
神を賛美したのです。御使いも神を賛美しましたが、羊飼いたちも神を賛美したのです。
ルカの福音書の最後も主の弟子は「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」
(24・53)とあります。救い主と出会った者はみな喜びと神への賛美がうまれるの
です。「新しく造られる民は、主をほめたたえるでしょう。」(詩102・18 口語訳)

2021年12月12日(日)「マリアの賛歌」ルカの福音書1章46~55節
この聖書箇所は「マリアの聖歌」と呼ばれ有名な箇所です。
また「マグニフィカート」(ララン語ではあがめるという意)とも呼ばれ、
内容も美しく整った言葉、霊的に深い賛歌です。
このマリアの賛歌の内容は、

1.神をあがめた賛歌(46,47節)
まず最初に神をあがめています。ですから賛美歌としても歌われているのです。
「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」
かつてハンナも「私があなたの救いを喜ぶからです。」(Ⅰサムエル2・1)
マリアは聖霊に満たされ、救い主を身ごもったことを喜び、
神をあがめたのでした。

2.社会の現実と向き合う賛歌(51、52節)
この時代、女性の地位は低く、まだ十代であろうマリアが
社会の現実と真剣に向き合う、「心の思いの高ぶる者を追い散らされ
ました。」(51)「権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く
引き上げられました。」(52)など、当時としては衝撃的な内容を歌って
います。私たちキリスト者も現代社会と向き合うことの大切さをマリアから
教えられます。

3.信仰共同体としての賛歌(54、55節)
このマリアの賛歌は後、賛美歌として教会で歌われ続けられました。
マリアの信仰告白は、私たちキリスト者の信仰告白となり、
マリアが身ごもった救い主なるイエス・キリストは、
私たちの救い主であり、教会のかしらなのです。
「美しいマグニフィカートは起爆力を内に含んでいる」(瀬尾要造の言葉)
教会の存在意義は、社会を変えていく、戦いではなく、
愛に働く信仰によってなされていくのです。
ある牧師の言葉「小さな教会であっても、地域包括に対して
できることは行っていきたい。」そのためにも新会堂建築は急務です。

2021年12月5日(日)「神の召しを仲間と一緒に生きる」ルカの福音書1章39~45節
本日はアドベント第二聖日です。マリアは御使いガブリエルより
「聖霊があなたの上に臨み」新しい命が宿ることを伝えられます。
マリアは「この身になりますように」と受け入れます。
また御使いは親類のエリサベツにも年をとっていますが
「男の子を宿しています」と告げます。マリアはそれらのことを知り、

1.エリサベツの妊娠(36節)
マリアは親類のエリサベツに起こったことで、神にとっては
不可能なことがないことを確信したのです。
同じ時期に神の奇跡のみ業がなされたのです。

2.エリサベツの存在(36節)
若いマリアにとって自分に起こった出来事を一人で抱えることは
大変苦しいことでした。ですから、エリサベツの存在は
マリアにとって大きな励ましとなったのです。
ナザレからエルサレム近くまで百キロ余りをマリアは
「急いで行った。」とあります。早く会いたい思いをもっていたのです。
そして、マリアに出会ったエリサベツは胎内の子が躍り、
聖霊に満たされたとあります。

3.神の召しを仲間と一緒に生きる(40~45節)
マリアもエリサベツも神の選びのなかにありました。
そして誰にも言えない苦しみ、悲しみを分かち合える友が
いたことは幸いです。教会は本来そのような場であるべきです。
「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに
泣きなさい。」(ローマ12・15)
教会は昔も今も愛の共同体であり、お互いに一つ心になる場所です。
神の召しを仲間と一緒に生きるこのことがとても重要なことで
同じ信仰が与えてしまった人との交わりが必要です。
またそれらの基準はこの世とは違うのです。

2021年11月28日(日)「マリアの信仰」ルカの福音書1章26~38節
本日よりアドベントに入ります。ルカ1章より、
マリアの信仰と題して説教します。
マリアはダビデ王の子孫であるヨセフのいいなずけの身で、
御使いガブリエルより「見なさい。あなたは身ごもって、
男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と言われます。
このマリアの信仰から私たちも学びましょう。

1.謙虚な信仰(38節)
マリアは御使いガブリエルの言葉に戸惑いつつもこのように言います。
「私は主のはしためです。」と。はしためとは女奴隷のことです。
謙虚なマリアがそこにいます。

2.積極的な信仰(34節、38節)
御使いと出会うとき、恐れおののいてしまう者もいます。
しかし、マリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。
私は男の人を知りませんのに。」と、答えています。
積極的な一面もマリアは持っています。
この時代は、女性の地位は低く、発言する権利も限られていました。
そんな中でのマリアの発言は積極的な信仰をもっていたといえます。

3.従順な信仰(38節)
マリアはヨセフといいなずけの身で、子を宿すとなれば
姦淫の罪で死刑となる危機でもあったのです。
しかし、すべては神のご計画の中にあるという思いを持ち、
「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
と言ったのです。神への従順な信仰はマリアが神の恵みを受けた女性
として、多くの人々に覚えられることとなります。
及川信は、「マリアはこの時、それまでのマリアではなく、
新しいマリアにさせられたのです。」(『ルカ福音書を読もう上』)
マリアは聖霊の力に満たされていたのでしょう。

2021年11月21日(日)「誘惑」マルコの福音書14章36~42節
主イエス・キリストが死ぬほどの痛みの中で祈りをささげている最中、
弟子たちは眠っていました。(37)
そのとき、イエス・キリストは言われた。「誘惑に陥らないように、
目を覚まして祈っていなさい。」と。イエス・キリストと弟子たちの
あまりの違いに驚きます。
また今回誘惑についてみ言葉からみていきたく思います。

1.誘惑はサタンから来るもの(1章13節)
誘惑とは一般的には「何らかの不正、あるいは、
よこしまな目的をもって他人を誘うこと」ですが、
小説でも徳川秋声、芥川龍之介、伊藤整の作家が
「誘惑」というタイトルで書いています。
聖書では誘惑はサタン(悪魔)から来ることを示しています。

2.誘惑に陥らないように(38節)
イエス・キリストは、「誘惑に陥らないように」と警告しています。
イエス・キリストを救い主として信じたときから霊的な戦いが
始まります。人は思っている以上に弱い存在です。
サタンから誘惑を受けることがあり、ですからイエス・キリストも
弟子ペテロのためにも祈っています。(ルカ22・31,32)

3.誘惑から勝利するため(38節)
すべてのキリスト者に誘惑があるとすればその対策も
考えなくてはいけません。
①日々み言葉に養われること(マタイ4・4)
②日々祈りの生活を行うこと③聖めを求めて生きること
(ガラテヤ5・16,24)
弟子たちも緊張した日を過ごして、疲れ果てていたのでしょう。
しかし、霊的緊張が欠けていたのも事実でした。
私たちも3人の弟子たちの失敗から学び常に霊的緊張をもって
過ごしましょう。

2021年11月14日(日)「約束の地へ」ヨシュア記3章1~17節
CS礼拝では先週よりヨシュア記を取り上げています。
本日はCS礼拝と合同礼拝でありますのでマルコの福音書ではなく、
ヨシュア記3章から「約束の地へ」という題で説教を致します。
モーセ後、ヨシュアが新しい指導者として選ばれ、
イスラエルの民は約束の地(カナンの地)を目指していました。
目前にヨルダン川が前にありヨシュアは神の民に命じたのです。

1.ヨルダン川を前に(1~4節)
当時ヨルダン川は刈り入れの時期でもあり、雪どけの水が流れ、
水かさが増していました。そのような中ヨシュアは民に命じます。
「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちが
それを担いでいるのを見たら、その後を進みなさい。」と。
この契約の箱は神の臨在のしるしでもあり、祭司のみ担ぐ事が赦されていて、
契約の箱が民の先頭にあるなら神の臨在と守りがあることを示しています。

2.聖別する(5節)
ヨシュアは民に続いて言います。「あなたがたは自らを聖別しなさい。」
昔も今も神は聖別された者を用い給います。
そして、イエス・キリストを信じる者は、義と認められるのです。
(ローマ3・30)

3.ヨルダン川を渡る(14~17節)
まさにヨシュアが言った言葉の「主が、不思議を行われるから」
その事が実現していくのです。主の箱を担ぐ祭司の足の裏が
ヨルダン川の水の中にとどまる時、水がせき止められ、
民たちも無事ヨルダン川を渡る事ができたのです。
私たちキリスト者はすぐ恐れる者ですが、
勇気をもって一歩前に踏み出すとき、神の奇跡の業がなされるのです。
そして、約束の地へ行く事ができます。「強くあれ。雄々しくあれ。」
(1・6)

2021年11月7日(日)「信仰とは」へブル人への手紙11章1~16節
この手紙は、信仰の確信が揺らいでいるへブル人キリスト者に書かれたもので、
11章では信仰の確信を持ち続けた旧約の聖徒たちについて
述べられています。本日は聖徒の日礼拝でもあり、
午後は鴨越墓園にて墓前祈祷式がもたれます。
信仰とは何か。イエスをキリスト(救い主)と信じることです。
へブル人への手紙では、角度を変えてこう述べています。
「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを
確信させるものです。」(1)
つまり、見えないものを見続けることが信仰です。
神の御国も今は見えないですけど確かに存在しています。
この旧約の聖徒の信仰者の生き様を通してどのような信仰をもっていたのか。
アベル、ノア、アブラハムの3人の信仰を。
そして私たちキリスト者はその信仰を持っているのかを見ていきたいと思います。

1.見えない神を目の前に置く信仰(4節)
カインは神など見えないからと侮どり、不真実なささげものをしました。
しかし、アベルは、最高の羊、初子の羊をささげました。
神は目には見えませんが私たちキリスト者の信仰を見ています。

2.見えない神の言葉を事実と信じる信仰(7節)
ノアは、「暴虐で満ちているからだ。見よ、
わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。」(創6・13)
の神の言葉を信じる信仰があったので、家族の救いのために箱舟を造ったのです。

3.見えない天の故郷を目指して旅する信仰(16節)
アブラハムは、地上の故郷を出て、神が約束された地を目指し
旅をします。そして天の故郷を持ち望んだ信仰を持っていました。
現代の私たちキリスト者も旧約の聖徒が持つ信仰を持って
進もうではありませんか。

2021年10月31日(日)「アバ、父よ」マルコの福音書14章32~36節
イエス・キリストは弟子たちにかつて祈りを教えられた。
それが「主の祈り」です。それから十字架にかかる前に弟子たち3人に
祈りの姿を見せたのです。
それは「ゲッセマネの祈り」と呼ばれ有名な祈りであり、
現代の私たちにも多くのことを教えています。

1.悲しみを担いつつの祈り(34節)
「私は悲しみのあまり死ぬほどです。」(34)その悲しみは何か。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」
(イザヤ53・5)
この預言のごとくイエス・キリストの悲しみは私たちの悲しみであり、
私たちの罪のために死ぬほどの思いをもっておられるお方がおられる。
そのお方が主なるイエス・キリストです。

2.幼な子のような祈り(36節)
「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。」と。
父なる神へ全き信頼をもって祈りをささげる子なるイエス・キリスト。
私たちの祈りはどうか。神に全き信頼をもって祈りをささげているか。
私たちの神は全能なる神です。「神にはどんなことでもできるのです。」(10・27)

3.新しい時代への幕開けの祈り(36節)
「あなたがお望みになることが行われますように。」と
イエス・キリストは祈られた。杯(十字架)をも受け入れる祈りです。
イエス・キリストが十字架にかかられたとき、神殿の幕が
上から下まで真っ二つに裂けたのです。(15・38)
異邦人である者、罪人なる者が信仰により神の救いに与ることができる道を
開かれたのです。古い契約ではなく、新しい契約が有効となる
新しい時代への幕開けの祈りなのです。

2021年10月24日(日)「あなたがたより先に」マルコの福音書14章26~31節
イエス・キリストは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。
『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる。』と書いてあるからです。
しかし、わたしはよみがった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」と。
すると、ペテロが言います。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
この27,28節のイエス・キリストの言葉は、

1.弟子たちが十字架につまずくことを見抜く言葉
弟子のペテロは「私はつまずきません」と言い切りましたが、
イエス・キリストが捕らえられると、裏切り、
三度もイエス・キリストの弟子であることを否定するのです。
他の弟子たちも同様です。

2.弟子たちに先立って導くお方としての言葉
「あなたがたより先にガリラヤに行きます。」と、弟子たちに
先立って導くお方としてです。
かつてイスラエルの民たちを荒野の地から約束の地へと導く
指導者モーセのように、イエス・キリストは先立って導くお方です。
私たちキリスト者も順調の時ばかりではありませんし、
いつまで経っても荒野の時もあります。
しかし、キリスト者には、先立って導くお方がおられます。
神を信じる者に希望があります。神は愛だからです。

3.回復の時や場所を用意する言葉
イエス・キリストは後、捕らえられ、十字架に架かり、死んで
三日目によみがえられました。その時の弟子たちは預言されたように、
バラバラで孤独な者となります。
しかし、ガリラヤの場所で再び会うことを告げその場所は、
罪赦された者として再度使命を与える場所になります。
ある牧師の言葉「ガリラヤとは新しい神の民、教会です。」と。
今私たちキリスト者だけでなく、罪人をも教会へ招いておられるのです。

※本日は下記の表題で、鍋島猛師にメッセージをして頂きました。
2021年10月17日(日)「永遠の資産」ペテロの手紙第一1章3~9節

※本日は服部喜望教会の山下大喜師にメッセージをして頂きました。
2021年10月10日(日)「ひたすら主に奉仕するため」コリント人への手紙第一7章32~35節

本日は婚約式が行われます。なぜ、キリスト者の男女は独身でいたり、
または婚約し、結婚するのでしょうか。
今日の箇所に1つの答えがあります。
それは35節の「ひたすら主に奉仕できるため」です。
そのため、パウロは以下の勧めを記します。

1.思い煩わない(32節)
独身の男女は、「主のことに心を配ります」(32節)。
しかし、婚約・結婚すると、どうしたら妻に…夫に喜ばれるかと
世のことに「心を配り、心が分かれるのです」(34節)。
もちろん、婚約・結婚は祝福です。
ですが、役割・使命を新たに担うことになり、
生き方が複雑になるのも事実です。
その為に、パウロは思い煩わないでと言います。

2.品位ある生活を送る(35節)
キリスト者の男女の婚約・結婚生活の目的は「ひたすら主に奉仕
できるため」でした。その為に、パウロは「品位ある生活を送る」ことが
必要だと述べます。それは第1に「自分の生活を整理する」。
第2に「優先順位を信仰成長に置く」ことです。
それは男女がよく語り合い、互いを知ること(横の関係)。
二人が祈りと御言葉による主との交わり(縦の関係)を持つ事が
肝要なのです。

3.ひたすら主に奉仕できるため(35節)
この「奉仕」の原語は、「傍らに座って仕える」、
「仕えることに専念する」の意味もあります。
「奉仕」とは手足を動かし、主の為に働くだけではありません。
いつでも神の傍らに座り、何をするにも神の御心を伺うこと、
つまり主の前に静まることも立派な奉仕です。
私たちが独身でいるのも、婚約・結婚するのも、この「奉仕」のためなのです。

2021年9月26日(日)「まさか私では」マルコの福音書14章12~21節

「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを
裏切ります。」と主イエス・キリストが言われた時、弟子たちはみな
「まさか私ではないでしょう。」と動揺をして言った。
19節には「悲しくなり」とあり、その言葉は10章22節の「悲しみながら」
立ち去った若い金持ちの青年と同じ言葉です。
その悲しみは永遠の命を失う言葉でもありました。
ここでは、

1.弟子たちも罪を持っていた。(19節)
「まさか私ではないでしょう。」と自分ではないとはっきり言い切れる弟子は
一人もいなかったのです。私たちも罪がないと言い切る人は一人もいません。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。
・・善を行う者はいない。だれ一人いない。」のです。(ローマ3・10~12)。

2.裏切り者の救いのため(ルカの福音書19章10節)
弟子たちは、収税人ザアカイ同様みな罪人でした。そのために罪の赦しが必要な者
たちです。私たちもあのイスカリオテのユダが人ごとでなくなる時、
イエス・キリストに一歩近づくのです。

3.裏切り者の罪を背負われた。(イザヤ書53章6節)
イエス・キリストはイスカリオテのユダに言われました。「人の子を裏切る
その人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
(21)と厳しい言葉をかけますが、生まれて来なければよかった者が生まれて
来てよかったと誇れるようになるために主イエス・キリストは裏切りの罪を一人で
背負われたのです。「しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」
私たちもその十字架の恵みに生かされ、前を向いて生きるのです。

2021年10月3日(日)「これはわたしの体、わたしの血」マルコの福音書14章22~26節

現在私たちの教会ではコロナ禍で聖餐式が開けずにいます。
そのような時ではありますが、聖餐の恵みを知るべきではありますし、
長きに渡り教会は儀式として守ってきました。この聖餐の恵みは
今も教会に存在します。

1.過越の恵みがあります。
「彼ら(弟子たち)は過越の用意をした。」(16)
過越の食事とは、過越の恵みを感謝し、忘れぬための食事です。
過越は、イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時
モーセによって率いられエジプトを脱出しますが、エジプトの王が認めず、
そこで神はさまざまな災いをエジプトの国に下します。
最後の災いでは、最初に生まれた初子がすべて神に撃たれて死にました。
しかし、イスラエルの家はすべて守られたのです。
そのことで神の災いが過越されたことを記念し、過越の祭があり、
食事をしたのです。
私たちも神からの救いを覚え、教会で聖餐に与るたびに、
自分のためにもなされたキリストの十字架を心に刻むのです。

2.イエス・キリストの命に与ります。
イエスは、パンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、
弟子たちに言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
(22節)
また杯を取り、「これはわたしの契約の血です。」(24節)

つまり、私たちは、この聖餐に与るたびにキリストの命に与るのです。
又、私たちの内にキリストが内住されるということでもあります。
キリストはへり下り、人の中に宿るのです。

3.救いの歴史が過去、現在、未来へと続きます。
教会の歴史は聖餐の歴史でもあり、救いのみ業は、これからも
なされていきます。キリストの教会が、今日でも存在するならば、
そこで聖餐式がなされていくならば、絶望の中に希望を見出すのです。
ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4・10)

2021年9月26日(日)「まさか私では」マルコの福音書14章12~21節

「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを
裏切ります。」と主イエス・キリストが言われた時、弟子たちはみな
「まさか私ではないでしょう。」と動揺をして言った。
19節には「悲しくなり」とあり、その言葉は10章22節の「悲しみながら」
立ち去った若い金持ちの青年と同じ言葉です。
その悲しみは永遠の命を失う言葉でもありました。
ここでは、

1.弟子たちも罪を持っていた。(19節)
「まさか私ではないでしょう。」と自分ではないとはっきり言い切れる弟子は
一人もいなかったのです。私たちも罪がないと言い切る人は一人もいません。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。
・・善を行う者はいない。だれ一人いない。」のです。(ローマ3・10~12)。

2.裏切り者の救いのため(ルカの福音書19章10節)
弟子たちは、収税人ザアカイ同様みな罪人でした。そのために罪の赦しが必要な者
たちです。私たちもあのイスカリオテのユダが人ごとでなくなる時、
イエス・キリストに一歩近づくのです。

3.裏切り者の罪を背負われた。(イザヤ書53章6節)
イエス・キリストはイスカリオテのユダに言われました。「人の子を裏切る
その人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
(21)と厳しい言葉をかけますが、生まれて来なければよかった者が生まれて
来てよかったと誇れるようになるために主イエス・キリストは裏切りの罪を一人で
背負われたのです。「しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」
私たちもその十字架の恵みに生かされ、前を向いて生きるのです。

2021年6月13日(日)「子どもの祝福」マルコの福音書10章13~16節

6月の第2聖日は花の日(子どもの日)の礼拝です。この日は19世紀末、アメリカの
日曜日運動の中から生まれた日で、教会に集まる子どもたち、この社会で育つ子どもたち
のために祈る日でもあります。緊急事態宣言のため、子どもたちが教会に集っては
いませんがしかし、そのことを覚えて祈りたいのです。

1.子どもを招くイエス・キリスト(14節)
子どもは弱く、小さく、病気にもなりやすいですが、無限の可能性をもち、また希望を
示すのも子どもたちです。イエス・キリストの弟子は子どもを低く見ていたため、
イエス・キリストが子どものことで手を煩わせては大変と思い、親たちが子どもを
イエス・キリストのもとに連れてこようとしたのを妨げたのです。
しかし、イエス・キリストはそのことを見て弟子たちを叱り、「子どもたちを、
わたしのところに来させなさい。」と招かれたのです。神の国、主イエス・キリストの
支配するところはこのような子どもたちが入ることができる場所です。

2.子どもを祝福するイエス・キリスト(16節)
イエス・キリストは子どもを愛し、祝福の祈りをささげるお方です。イエス・キリストは
子どもたちを抱き、手を置いて祝福したのです。とても麗しい関係です。そして、子ども
は無心で神の祝福を受け取ります。私たちも子どものように、無心になって神からの祝福
を求めましょう。ヤコブの言葉を思い出しましょう。「私はあなたを去らせません。
私を祝福してくださらなければ。」と。(創32・26)

2021年6月6日(日)「祈りの家か強盗の巣か」マルコの福音書11章12~19節

先週よりマルコの福音書の11章に入っています。イエス・キリストの一行はべタニアを
出てエルサレムに向かう途中の道にいちじくの木があり、その木をよく見るとその木は
葉のみでありました。この時期はいちじくのなる季節ではなかったのです。イエス・
キリストはその木を呪い、枯らせられたのです。イエス・キリストの振る舞いは
不自然な行動です。
しかし、このことと後のエルサレムでの宮きよめの出来事とは密接な関係があるのです。

1.教会は祈りの家(17節)
イエス・キリストはイザヤ書56章7節のみ言葉を引用して、神殿は強盗の巣ではなく、
祈りの家であると教えたのです。そのため宮きよめをイエス・キリストはされました。
現代のキリストの教会も祈りによって建て上げられるものです。ですから私たちは教会で
祈ることの大切さを教えられます。しかし、祈りは楽しい祈りもありますが、痛みを
覚えて祈る祈りもあります。私たちのキリストの教会は今、祈りの家、祈りの教会と
なっているでしょうか。

2.教会は神のもの(17節)
エルサレムの神殿で商売をしている人たちがいて、イエス・キリストは宮きよめを
されました。私たちも「教会は人間のもの、私のものだ」と考えやすいものです。
イエス・キリストの宮きよめをし、「強盗の巣」という告発を祭司長たちは、
自分たちに向けられていると知り、反感をもち律法学者たちとともにイエス・キリストを
殺そうと相談するのです。この後、捕らえられ、イエス・キリストは十字架に
かかられたのです。

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2022年1月7日(日)

●本年もどうぞよろしくお願いいたします。
●1月12日(水)より、通常通り、毎週水曜日の聖研祈祷会がもたれます。

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