ようこそ鈴蘭台福音教会へ☆

鈴蘭台福音教会のホームページにようこそ。
私たちの教会は、緑豊かな神戸市北区にある、
家庭的なプロテスタント教会です。
毎週の礼拝の他に、各種集会やイベント等を行っています。
教会は初めてという方も、どうぞお気軽にお越しください。
令和2年度より礼拝は三部制(9:30、11:00、16:30)で行っています。
第二礼拝はYoutube配信もあります。

2022年1月22日(土)お知らせ
新型コロナの急激な感染拡大の状況を鑑み、2022年1月23日(日)~2月20日(日)までの
礼拝は10時半~のYouTube配信のみとなります。(集会形式は休止)
水曜日の聖書の学びと祈祷もZoom開催となります。※参加ご希望の方は牧師まで
お問合せください。

今年度標語
「新会堂を目指して(2年目)」
今年度聖句
イザヤ書43章19節
「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」

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★2022.1.11 1月の教会カレンダーを更新しました。
★2021.12.9 12月の教会カレンダーを更新しました。
★2021.11.7 11月の教会カレンダーを更新しました。
★2021.10.18 10月の教会カレンダーを更新しました。
★2021.6.13 6月の教会カレンダーを更新しました。
★2021.4.4 今年度聖句を更新しました。

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礼拝メッセージ new!

2022年1月23日(日)「わたしが、それです。」マルコの福音書14章53~65節
兵庫県にまん延防止等重点措置が適用されることとなり、本日から2月20日の
礼拝までをオンライン礼拝とすることにしました。ご理解ください。
昨年に続きマルコの福音書から説教致します。
14章53~65節では弟子のユダに裏切られ、イエス・キリストは捕らえられ、
大祭司のところへ連れて行かれます。その後、祭司長たちと最高法院でイエス・
キリストを死刑とする試みが話し合われます。

1.正当な証言を見出せない(55~57節)
イエス・キリストを死刑とする正当な証言を得ようとしますが、得ることが
できなかったと聖書は示します。最高法院は当時公的な議会であり、
裁判の手続がなされていた場所でした。律法では死刑に価するためには
二人、三人の証言の立証が必要で(申19・15)また、多くの者がイエス・
キリストに対して不利な証言をしても偽証とされたとあります。(56)
イエス・キリストは一つの罪をも犯さなかったお方です。
預言者イザヤも預言しています。「彼は不法を働かず、その口には
欺きはなかった。」(イザヤ53・9)

2.イエス・キリストの告白(62節)
イエス・キリストはしばし沈黙のなか(イザヤ53・7)、
大祭司の「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」との問いに答えます。
「わたしが、それです。」と。この告白が死刑判決の決め手となったのです。
それは審問席にいる人たちをもその罪を赦し、救う言葉でもあったのです。
「イエスという存在は人間のものさしでは測れません。」(杉田太一師)

2022年1月16日(日)「あなたがたと一緒に」マルコの福音書14章43~52節
昨年に続きマルコの福音書から説教致します。14章43~52節では裏切られる
イエス・キリストの落ち着きと裏切る人々の動揺が鮮やかに表現されます。
ここで不信仰な弟子たちの恐れと愛なるイエス・キリストが存在しています。

1.不信仰な弟子たちの恐れ(50~51節)
私たちは強く見える方も皆恐れの心を持っています。イエス・キリストの弟子たち
は、皆イエス・キリストを裏切ることになります。特にユダがそうです。
「なぜ裏切るのか」と問われたら不信仰しか答えるしかない。
私たちキリスト者もいつも主イエス・キリストを信頼できるかと言うと、困難かも
しれません。マルコの福音書はマルコが書いたと言われます。この裸で逃げた青年は
マルコだと言われています。(52節)

2.愛なるイエス・キリスト(43~49節)
ここに動揺しないイエス・キリストがいます。「愛には恐れがありません。」
(Ⅰヨハネ4・18)
イエス・キリストは人々たちに言います。「わたしは毎日、宮であなたがたと
一緒にいて教えていた」(49)と。
私たちの神はインマヌエルの神で、神は私たちとともにいてくださるのです。
また主イエス・キリストを信じる者に聖霊が与えられます。聖霊は愛です。
聖霊に満たされる時、イエス・キリストの愛で満たされます。完全な愛には
恐れがありません。どんな状況でも恐れのない人生をキリスト者は過ごすことが
できるのです。パウロは祈ります。
「内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」
(エペソ3・16)と。

2022年1月9日(日)「今こそ、次世代の宣教と信仰継承を」ヨシュア記1章9節
本日礼拝は2022年の教団標語と聖句からの説教となります。
ヨシュア記1章では約束の地(カナン)にエジプトから脱出したイスラエル人の
指導者のモーセの死後、後継者としてヨシュアが主に選ばれ、み言葉が与えられ
ました。そのみ言葉が2~9節であり、そのなかで9節が教団にこの年与えられた
み言葉です。そのみ言葉を通して

1.何に恐れがあるか(7~9節)
「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。」とありますが、
モーセのように自分は指導者としてできるかどうか。約束の地ではそこに住む人々と
戦わなければいけないのです。そのカナン人に対してか。確かにそれらが原因で
あるかもしれないが、7節にあるように「律法のすべてを守り行うこと」
「右にも左にもそれてはならない」正しい道を歩むことができるか。
自分自身の内にある主への信頼と信仰がなくては恐れてしまいます。
私たちキリスト者もこの年、予測できない事柄が起こっても、
主への信頼と信仰がなくならないように気をつけたい。

2.主がともにいる恵みのなかで前進する(9節)
「主があなたとともにおられるのだから」とのみ言葉は、真理であり、
現代にも主は語り続けているメッセージの一つです。
聖書の神は、私たちの神であり、インマヌエルの神であることを。
このことは主の恵みであること、そして主は私たちキリスト者が前を向いて
前進することを求めています。そこではさまざまな霊的な戦いがあるかも
しれませんが、主を信じる者には主の約束があり、圧倒的な勝利者となる
ことができます。(ローマ8・37)イスラエルの民が約束の地(カナン)に入った
ように。また、次世代への宣教と信仰継承をも挑戦しましょう。

2022年1月2日(日)「神の語りかけの中に生きる年」詩篇119篇105節
本日は新年礼拝、教会の標語と聖句より語ります。標語は「神の語りかけの中に
生きる年」で聖句は、詩119篇105節です。

1.み言葉を聞くこと
少年サムエルは、祭司エリより「主よ、お話しください。しもべは聞いて
おります。」と言いなさいと、言われ、その通りに「お話しください。
しもべは聞いております。」と言ったとあります。(Ⅰサムエル3・9,10)
私たちは常に心を開き、聞く姿勢を持つ必要がいります。
主イエス・キリストも言います。「みなわたしのいうことを聞いて、悟りなさい。」
と。(マルコ7・14)

2.神に愛されていることを実感すること
神の語りかけを聞くとき、正しい道を示してくださると同時に、神の愛を覚える
ことが出来ます。絶望の中にいたエリヤにも主のことばがありました。
「エリヤよ、ここで何をしているのか」と。(Ⅰ列19・9)
神の語りかけを聞く時、そこから神との交わりが生まれ、歩むべき道を示され、
神が導き手であり、愛なるお方であることを実感できるのです。
神は私たちを創造されたお方であることを忘れず、私たちを大切にしてくださって
いることをいつも覚えたい。
時には神の語りかけが、「かすかな細い声」(Ⅰ列19・12)であっても
聞きもらさず、敏感にキャッチできるよう心がけたいものです。
また神の語りかけをマリアのように思いをめぐらす者でありたいです。
(ルカ2・19)新しい年、一人一人が2022年が「神の語りかけの中に
生きる年」となれますように祈ります。

2021年12月26日(日)「息のあるものはみな」詩篇150篇1~6節
本日の礼拝は年末感謝礼拝です。詩篇の一番最後の詩篇で短いですが、
この箇所より説教いたします。先週は1年ぶりに教会の礼拝で聖餐式をもち、
主の十字架のあがないの恵みを覚えて感謝いたしました。
詩篇150篇を通して、

1.礼拝の中で賛美をささげる(1節)
「神の聖所で 神をほめたたえよ」(1)と、神の聖所は現代では
教会であり、礼拝のなかで神をたたえることの重要性を詩篇の作者は伝えています。

2.神のみ業を賛美する(2節)
「大能のみわざ」と2節にあり、神のみ業はまさに大能です。
すべての人の救いのために神のひとり子を犠牲にし、そのみ業をなされました。
神のひとり子であるイエス・キリストの十字架の行為はすべての人の罪の贖いで
あり、神の大いなる恵みです。
罪人である者が罪赦され、神の子とされること。低き者が神により高くされる
こと。この大いなる恵みはすべての人にすでに与えられているのです。
私たちはそのことを感謝し、神をほめたたえることを神は求めておられます。

3.最後の息に至るまで(6節)
先日ある兄弟の告別式に出席しました。
その方はキリスト者で最後の日まで日記を書いていたそうです。
詩篇の作者は「息のあるものはみな主をほめたたえよ、ハレルヤ」と
うたっています。誰が賛美するのか、息のあるもの(人間)です。
最後の息に至るまで救い主イエス・キリストの恵みを知る者は神をほめたたえて
いきたい。神は賛美されるべきお方だから。
工藤弘雄師は著書『詩篇とともに歩む日々』のなかで、「詩篇150篇は
詩篇における究極の賛美です。」と紹介しておられます。

2021年12月19日(日)「あなたがたのために」ルカの福音書2章1~20節
マタイの福音書では、みどりごイエスの誕生を祝う者は、東方からの博士たちですが、
ルカの福音書では羊飼いたちです。羊飼いたちは当時のユダヤ社会では貧しい者たちで、
他の人々から蔑まれていました。
しかし、羊飼いたちに主の使いが「彼らのところに来て」(9)とあります。
羊飼いたちは神への信仰と羊のために夜番する愛がありました。
羊飼いたちへ

1.「恐れることはありません。」との言葉(10節)
この言葉は主の御使いの言葉です。人は誰しも恐れがあります。
自分は周りの人に受け入れてもらっているか、自然災害の恐れ、新しいウィルスへの
恐れ、死の恐れです。神はいつもそのような恐れやすい人に「恐れることはありません」
と声をかけてくださるお方です。

2.救い主を見た。(16節)
貧しい羊飼いたちは救い主と出会うことができました。この救い主はイエス・キリスト
です。この誕生がクリスマスです。この救い主イエス・キリストは、羊飼いたちの
救い主であり、東方の博士たちの救い主であり、私たちの救い主でもあるのです。

3.喜びと賛美がうまれた。(20節)
「羊飼いたちは、・・・神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20)
羊飼いたちはこのみどりごが自分たちの救い主であったことで内に喜びがあふれ
神を賛美したのです。御使いも神を賛美しましたが、羊飼いたちも神を賛美したのです。
ルカの福音書の最後も主の弟子は「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」
(24・53)とあります。救い主と出会った者はみな喜びと神への賛美がうまれるの
です。「新しく造られる民は、主をほめたたえるでしょう。」(詩102・18 口語訳)

2021年12月12日(日)「マリアの賛歌」ルカの福音書1章46~55節
この聖書箇所は「マリアの聖歌」と呼ばれ有名な箇所です。
また「マグニフィカート」(ララン語ではあがめるという意)とも呼ばれ、
内容も美しく整った言葉、霊的に深い賛歌です。
このマリアの賛歌の内容は、

1.神をあがめた賛歌(46,47節)
まず最初に神をあがめています。ですから賛美歌としても歌われているのです。
「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」
かつてハンナも「私があなたの救いを喜ぶからです。」(Ⅰサムエル2・1)
マリアは聖霊に満たされ、救い主を身ごもったことを喜び、
神をあがめたのでした。

2.社会の現実と向き合う賛歌(51、52節)
この時代、女性の地位は低く、まだ十代であろうマリアが
社会の現実と真剣に向き合う、「心の思いの高ぶる者を追い散らされ
ました。」(51)「権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く
引き上げられました。」(52)など、当時としては衝撃的な内容を歌って
います。私たちキリスト者も現代社会と向き合うことの大切さをマリアから
教えられます。

3.信仰共同体としての賛歌(54、55節)
このマリアの賛歌は後、賛美歌として教会で歌われ続けられました。
マリアの信仰告白は、私たちキリスト者の信仰告白となり、
マリアが身ごもった救い主なるイエス・キリストは、
私たちの救い主であり、教会のかしらなのです。
「美しいマグニフィカートは起爆力を内に含んでいる」(瀬尾要造の言葉)
教会の存在意義は、社会を変えていく、戦いではなく、
愛に働く信仰によってなされていくのです。
ある牧師の言葉「小さな教会であっても、地域包括に対して
できることは行っていきたい。」そのためにも新会堂建築は急務です。

2021年12月5日(日)「神の召しを仲間と一緒に生きる」ルカの福音書1章39~45節
本日はアドベント第二聖日です。マリアは御使いガブリエルより
「聖霊があなたの上に臨み」新しい命が宿ることを伝えられます。
マリアは「この身になりますように」と受け入れます。
また御使いは親類のエリサベツにも年をとっていますが
「男の子を宿しています」と告げます。マリアはそれらのことを知り、

1.エリサベツの妊娠(36節)
マリアは親類のエリサベツに起こったことで、神にとっては
不可能なことがないことを確信したのです。
同じ時期に神の奇跡のみ業がなされたのです。

2.エリサベツの存在(36節)
若いマリアにとって自分に起こった出来事を一人で抱えることは
大変苦しいことでした。ですから、エリサベツの存在は
マリアにとって大きな励ましとなったのです。
ナザレからエルサレム近くまで百キロ余りをマリアは
「急いで行った。」とあります。早く会いたい思いをもっていたのです。
そして、マリアに出会ったエリサベツは胎内の子が躍り、
聖霊に満たされたとあります。

3.神の召しを仲間と一緒に生きる(40~45節)
マリアもエリサベツも神の選びのなかにありました。
そして誰にも言えない苦しみ、悲しみを分かち合える友が
いたことは幸いです。教会は本来そのような場であるべきです。
「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに
泣きなさい。」(ローマ12・15)
教会は昔も今も愛の共同体であり、お互いに一つ心になる場所です。
神の召しを仲間と一緒に生きるこのことがとても重要なことで
同じ信仰が与えてしまった人との交わりが必要です。
またそれらの基準はこの世とは違うのです。

2021年11月28日(日)「マリアの信仰」ルカの福音書1章26~38節
本日よりアドベントに入ります。ルカ1章より、
マリアの信仰と題して説教します。
マリアはダビデ王の子孫であるヨセフのいいなずけの身で、
御使いガブリエルより「見なさい。あなたは身ごもって、
男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と言われます。
このマリアの信仰から私たちも学びましょう。

1.謙虚な信仰(38節)
マリアは御使いガブリエルの言葉に戸惑いつつもこのように言います。
「私は主のはしためです。」と。はしためとは女奴隷のことです。
謙虚なマリアがそこにいます。

2.積極的な信仰(34節、38節)
御使いと出会うとき、恐れおののいてしまう者もいます。
しかし、マリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。
私は男の人を知りませんのに。」と、答えています。
積極的な一面もマリアは持っています。
この時代は、女性の地位は低く、発言する権利も限られていました。
そんな中でのマリアの発言は積極的な信仰をもっていたといえます。

3.従順な信仰(38節)
マリアはヨセフといいなずけの身で、子を宿すとなれば
姦淫の罪で死刑となる危機でもあったのです。
しかし、すべては神のご計画の中にあるという思いを持ち、
「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
と言ったのです。神への従順な信仰はマリアが神の恵みを受けた女性
として、多くの人々に覚えられることとなります。
及川信は、「マリアはこの時、それまでのマリアではなく、
新しいマリアにさせられたのです。」(『ルカ福音書を読もう上』)
マリアは聖霊の力に満たされていたのでしょう。

2021年11月21日(日)「誘惑」マルコの福音書14章36~42節
主イエス・キリストが死ぬほどの痛みの中で祈りをささげている最中、
弟子たちは眠っていました。(37)
そのとき、イエス・キリストは言われた。「誘惑に陥らないように、
目を覚まして祈っていなさい。」と。イエス・キリストと弟子たちの
あまりの違いに驚きます。
また今回誘惑についてみ言葉からみていきたく思います。

1.誘惑はサタンから来るもの(1章13節)
誘惑とは一般的には「何らかの不正、あるいは、
よこしまな目的をもって他人を誘うこと」ですが、
小説でも徳川秋声、芥川龍之介、伊藤整の作家が
「誘惑」というタイトルで書いています。
聖書では誘惑はサタン(悪魔)から来ることを示しています。

2.誘惑に陥らないように(38節)
イエス・キリストは、「誘惑に陥らないように」と警告しています。
イエス・キリストを救い主として信じたときから霊的な戦いが
始まります。人は思っている以上に弱い存在です。
サタンから誘惑を受けることがあり、ですからイエス・キリストも
弟子ペテロのためにも祈っています。(ルカ22・31,32)

3.誘惑から勝利するため(38節)
すべてのキリスト者に誘惑があるとすればその対策も
考えなくてはいけません。
①日々み言葉に養われること(マタイ4・4)
②日々祈りの生活を行うこと③聖めを求めて生きること
(ガラテヤ5・16,24)
弟子たちも緊張した日を過ごして、疲れ果てていたのでしょう。
しかし、霊的緊張が欠けていたのも事実でした。
私たちも3人の弟子たちの失敗から学び常に霊的緊張をもって
過ごしましょう。

2021年11月14日(日)「約束の地へ」ヨシュア記3章1~17節
CS礼拝では先週よりヨシュア記を取り上げています。
本日はCS礼拝と合同礼拝でありますのでマルコの福音書ではなく、
ヨシュア記3章から「約束の地へ」という題で説教を致します。
モーセ後、ヨシュアが新しい指導者として選ばれ、
イスラエルの民は約束の地(カナンの地)を目指していました。
目前にヨルダン川が前にありヨシュアは神の民に命じたのです。

1.ヨルダン川を前に(1~4節)
当時ヨルダン川は刈り入れの時期でもあり、雪どけの水が流れ、
水かさが増していました。そのような中ヨシュアは民に命じます。
「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちが
それを担いでいるのを見たら、その後を進みなさい。」と。
この契約の箱は神の臨在のしるしでもあり、祭司のみ担ぐ事が赦されていて、
契約の箱が民の先頭にあるなら神の臨在と守りがあることを示しています。

2.聖別する(5節)
ヨシュアは民に続いて言います。「あなたがたは自らを聖別しなさい。」
昔も今も神は聖別された者を用い給います。
そして、イエス・キリストを信じる者は、義と認められるのです。
(ローマ3・30)

3.ヨルダン川を渡る(14~17節)
まさにヨシュアが言った言葉の「主が、不思議を行われるから」
その事が実現していくのです。主の箱を担ぐ祭司の足の裏が
ヨルダン川の水の中にとどまる時、水がせき止められ、
民たちも無事ヨルダン川を渡る事ができたのです。
私たちキリスト者はすぐ恐れる者ですが、
勇気をもって一歩前に踏み出すとき、神の奇跡の業がなされるのです。
そして、約束の地へ行く事ができます。「強くあれ。雄々しくあれ。」
(1・6)

2021年11月7日(日)「信仰とは」へブル人への手紙11章1~16節
この手紙は、信仰の確信が揺らいでいるへブル人キリスト者に書かれたもので、
11章では信仰の確信を持ち続けた旧約の聖徒たちについて
述べられています。本日は聖徒の日礼拝でもあり、
午後は鴨越墓園にて墓前祈祷式がもたれます。
信仰とは何か。イエスをキリスト(救い主)と信じることです。
へブル人への手紙では、角度を変えてこう述べています。
「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを
確信させるものです。」(1)
つまり、見えないものを見続けることが信仰です。
神の御国も今は見えないですけど確かに存在しています。
この旧約の聖徒の信仰者の生き様を通してどのような信仰をもっていたのか。
アベル、ノア、アブラハムの3人の信仰を。
そして私たちキリスト者はその信仰を持っているのかを見ていきたいと思います。

1.見えない神を目の前に置く信仰(4節)
カインは神など見えないからと侮どり、不真実なささげものをしました。
しかし、アベルは、最高の羊、初子の羊をささげました。
神は目には見えませんが私たちキリスト者の信仰を見ています。

2.見えない神の言葉を事実と信じる信仰(7節)
ノアは、「暴虐で満ちているからだ。見よ、
わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。」(創6・13)
の神の言葉を信じる信仰があったので、家族の救いのために箱舟を造ったのです。

3.見えない天の故郷を目指して旅する信仰(16節)
アブラハムは、地上の故郷を出て、神が約束された地を目指し
旅をします。そして天の故郷を持ち望んだ信仰を持っていました。
現代の私たちキリスト者も旧約の聖徒が持つ信仰を持って
進もうではありませんか。

2021年10月31日(日)「アバ、父よ」マルコの福音書14章32~36節
イエス・キリストは弟子たちにかつて祈りを教えられた。
それが「主の祈り」です。それから十字架にかかる前に弟子たち3人に
祈りの姿を見せたのです。
それは「ゲッセマネの祈り」と呼ばれ有名な祈りであり、
現代の私たちにも多くのことを教えています。

1.悲しみを担いつつの祈り(34節)
「私は悲しみのあまり死ぬほどです。」(34)その悲しみは何か。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」
(イザヤ53・5)
この預言のごとくイエス・キリストの悲しみは私たちの悲しみであり、
私たちの罪のために死ぬほどの思いをもっておられるお方がおられる。
そのお方が主なるイエス・キリストです。

2.幼な子のような祈り(36節)
「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。」と。
父なる神へ全き信頼をもって祈りをささげる子なるイエス・キリスト。
私たちの祈りはどうか。神に全き信頼をもって祈りをささげているか。
私たちの神は全能なる神です。「神にはどんなことでもできるのです。」(10・27)

3.新しい時代への幕開けの祈り(36節)
「あなたがお望みになることが行われますように。」と
イエス・キリストは祈られた。杯(十字架)をも受け入れる祈りです。
イエス・キリストが十字架にかかられたとき、神殿の幕が
上から下まで真っ二つに裂けたのです。(15・38)
異邦人である者、罪人なる者が信仰により神の救いに与ることができる道を
開かれたのです。古い契約ではなく、新しい契約が有効となる
新しい時代への幕開けの祈りなのです。

2021年10月24日(日)「あなたがたより先に」マルコの福音書14章26~31節
イエス・キリストは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。
『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる。』と書いてあるからです。
しかし、わたしはよみがった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」と。
すると、ペテロが言います。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
この27,28節のイエス・キリストの言葉は、

1.弟子たちが十字架につまずくことを見抜く言葉
弟子のペテロは「私はつまずきません」と言い切りましたが、
イエス・キリストが捕らえられると、裏切り、
三度もイエス・キリストの弟子であることを否定するのです。
他の弟子たちも同様です。

2.弟子たちに先立って導くお方としての言葉
「あなたがたより先にガリラヤに行きます。」と、弟子たちに
先立って導くお方としてです。
かつてイスラエルの民たちを荒野の地から約束の地へと導く
指導者モーセのように、イエス・キリストは先立って導くお方です。
私たちキリスト者も順調の時ばかりではありませんし、
いつまで経っても荒野の時もあります。
しかし、キリスト者には、先立って導くお方がおられます。
神を信じる者に希望があります。神は愛だからです。

3.回復の時や場所を用意する言葉
イエス・キリストは後、捕らえられ、十字架に架かり、死んで
三日目によみがえられました。その時の弟子たちは預言されたように、
バラバラで孤独な者となります。
しかし、ガリラヤの場所で再び会うことを告げその場所は、
罪赦された者として再度使命を与える場所になります。
ある牧師の言葉「ガリラヤとは新しい神の民、教会です。」と。
今私たちキリスト者だけでなく、罪人をも教会へ招いておられるのです。

※本日は鍋島猛師が、下記の表題でメッセージのご奉仕をしてくださいました。
2021年10月17日(日)「永遠の資産」ペテロの手紙第一1章3~9節

※本日は服部喜望教会の山下大喜師がメッセージのご奉仕をしてくださいました。
2021年10月10日(日)「ひたすら主に奉仕するため」コリント人への手紙第一7章32~35節

本日は婚約式が行われます。なぜ、キリスト者の男女は独身でいたり、
または婚約し、結婚するのでしょうか。
今日の箇所に1つの答えがあります。
それは35節の「ひたすら主に奉仕できるため」です。
そのため、パウロは以下の勧めを記します。

1.思い煩わない(32節)
独身の男女は、「主のことに心を配ります」(32節)。
しかし、婚約・結婚すると、どうしたら妻に…夫に喜ばれるかと
世のことに「心を配り、心が分かれるのです」(34節)。
もちろん、婚約・結婚は祝福です。
ですが、役割・使命を新たに担うことになり、
生き方が複雑になるのも事実です。
その為に、パウロは思い煩わないでと言います。

2.品位ある生活を送る(35節)
キリスト者の男女の婚約・結婚生活の目的は「ひたすら主に奉仕
できるため」でした。その為に、パウロは「品位ある生活を送る」ことが
必要だと述べます。それは第1に「自分の生活を整理する」。
第2に「優先順位を信仰成長に置く」ことです。
それは男女がよく語り合い、互いを知ること(横の関係)。
二人が祈りと御言葉による主との交わり(縦の関係)を持つ事が
肝要なのです。

3.ひたすら主に奉仕できるため(35節)
この「奉仕」の原語は、「傍らに座って仕える」、
「仕えることに専念する」の意味もあります。
「奉仕」とは手足を動かし、主の為に働くだけではありません。
いつでも神の傍らに座り、何をするにも神の御心を伺うこと、
つまり主の前に静まることも立派な奉仕です。
私たちが独身でいるのも、婚約・結婚するのも、この「奉仕」のためなのです。

2021年9月26日(日)「まさか私では」マルコの福音書14章12~21節

「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを
裏切ります。」と主イエス・キリストが言われた時、弟子たちはみな
「まさか私ではないでしょう。」と動揺をして言った。
19節には「悲しくなり」とあり、その言葉は10章22節の「悲しみながら」
立ち去った若い金持ちの青年と同じ言葉です。
その悲しみは永遠の命を失う言葉でもありました。
ここでは、

1.弟子たちも罪を持っていた。(19節)
「まさか私ではないでしょう。」と自分ではないとはっきり言い切れる弟子は
一人もいなかったのです。私たちも罪がないと言い切る人は一人もいません。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。
・・善を行う者はいない。だれ一人いない。」のです。(ローマ3・10~12)。

2.裏切り者の救いのため(ルカの福音書19章10節)
弟子たちは、収税人ザアカイ同様みな罪人でした。そのために罪の赦しが必要な者
たちです。私たちもあのイスカリオテのユダが人ごとでなくなる時、
イエス・キリストに一歩近づくのです。

3.裏切り者の罪を背負われた。(イザヤ書53章6節)
イエス・キリストはイスカリオテのユダに言われました。「人の子を裏切る
その人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
(21)と厳しい言葉をかけますが、生まれて来なければよかった者が生まれて
来てよかったと誇れるようになるために主イエス・キリストは裏切りの罪を一人で
背負われたのです。「しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」
私たちもその十字架の恵みに生かされ、前を向いて生きるのです。

2021年10月3日(日)「これはわたしの体、わたしの血」マルコの福音書14章22~26節

現在私たちの教会ではコロナ禍で聖餐式が開けずにいます。
そのような時ではありますが、聖餐の恵みを知るべきではありますし、
長きに渡り教会は儀式として守ってきました。この聖餐の恵みは
今も教会に存在します。

1.過越の恵みがあります。
「彼ら(弟子たち)は過越の用意をした。」(16)
過越の食事とは、過越の恵みを感謝し、忘れぬための食事です。
過越は、イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時
モーセによって率いられエジプトを脱出しますが、エジプトの王が認めず、
そこで神はさまざまな災いをエジプトの国に下します。
最後の災いでは、最初に生まれた初子がすべて神に撃たれて死にました。
しかし、イスラエルの家はすべて守られたのです。
そのことで神の災いが過越されたことを記念し、過越の祭があり、
食事をしたのです。
私たちも神からの救いを覚え、教会で聖餐に与るたびに、
自分のためにもなされたキリストの十字架を心に刻むのです。

2.イエス・キリストの命に与ります。
イエスは、パンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、
弟子たちに言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
(22節)
また杯を取り、「これはわたしの契約の血です。」(24節)

つまり、私たちは、この聖餐に与るたびにキリストの命に与るのです。
又、私たちの内にキリストが内住されるということでもあります。
キリストはへり下り、人の中に宿るのです。

3.救いの歴史が過去、現在、未来へと続きます。
教会の歴史は聖餐の歴史でもあり、救いのみ業は、これからも
なされていきます。キリストの教会が、今日でも存在するならば、
そこで聖餐式がなされていくならば、絶望の中に希望を見出すのです。
ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4・10)

2021年9月26日(日)「まさか私では」マルコの福音書14章12~21節

「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを
裏切ります。」と主イエス・キリストが言われた時、弟子たちはみな
「まさか私ではないでしょう。」と動揺をして言った。
19節には「悲しくなり」とあり、その言葉は10章22節の「悲しみながら」
立ち去った若い金持ちの青年と同じ言葉です。
その悲しみは永遠の命を失う言葉でもありました。
ここでは、

1.弟子たちも罪を持っていた。(19節)
「まさか私ではないでしょう。」と自分ではないとはっきり言い切れる弟子は
一人もいなかったのです。私たちも罪がないと言い切る人は一人もいません。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。
・・善を行う者はいない。だれ一人いない。」のです。(ローマ3・10~12)。

2.裏切り者の救いのため(ルカの福音書19章10節)
弟子たちは、収税人ザアカイ同様みな罪人でした。そのために罪の赦しが必要な者
たちです。私たちもあのイスカリオテのユダが人ごとでなくなる時、
イエス・キリストに一歩近づくのです。

3.裏切り者の罪を背負われた。(イザヤ書53章6節)
イエス・キリストはイスカリオテのユダに言われました。「人の子を裏切る
その人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
(21)と厳しい言葉をかけますが、生まれて来なければよかった者が生まれて
来てよかったと誇れるようになるために主イエス・キリストは裏切りの罪を一人で
背負われたのです。「しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」
私たちもその十字架の恵みに生かされ、前を向いて生きるのです。

2021年6月13日(日)「子どもの祝福」マルコの福音書10章13~16節

6月の第2聖日は花の日(子どもの日)の礼拝です。この日は19世紀末、アメリカの
日曜日運動の中から生まれた日で、教会に集まる子どもたち、この社会で育つ子どもたち
のために祈る日でもあります。緊急事態宣言のため、子どもたちが教会に集っては
いませんがしかし、そのことを覚えて祈りたいのです。

1.子どもを招くイエス・キリスト(14節)
子どもは弱く、小さく、病気にもなりやすいですが、無限の可能性をもち、また希望を
示すのも子どもたちです。イエス・キリストの弟子は子どもを低く見ていたため、
イエス・キリストが子どものことで手を煩わせては大変と思い、親たちが子どもを
イエス・キリストのもとに連れてこようとしたのを妨げたのです。
しかし、イエス・キリストはそのことを見て弟子たちを叱り、「子どもたちを、
わたしのところに来させなさい。」と招かれたのです。神の国、主イエス・キリストの
支配するところはこのような子どもたちが入ることができる場所です。

2.子どもを祝福するイエス・キリスト(16節)
イエス・キリストは子どもを愛し、祝福の祈りをささげるお方です。イエス・キリストは
子どもたちを抱き、手を置いて祝福したのです。とても麗しい関係です。そして、子ども
は無心で神の祝福を受け取ります。私たちも子どものように、無心になって神からの祝福
を求めましょう。ヤコブの言葉を思い出しましょう。「私はあなたを去らせません。
私を祝福してくださらなければ。」と。(創32・26)

2021年6月6日(日)「祈りの家か強盗の巣か」マルコの福音書11章12~19節

先週よりマルコの福音書の11章に入っています。イエス・キリストの一行はべタニアを
出てエルサレムに向かう途中の道にいちじくの木があり、その木をよく見るとその木は
葉のみでありました。この時期はいちじくのなる季節ではなかったのです。イエス・
キリストはその木を呪い、枯らせられたのです。イエス・キリストの振る舞いは
不自然な行動です。
しかし、このことと後のエルサレムでの宮きよめの出来事とは密接な関係があるのです。

1.教会は祈りの家(17節)
イエス・キリストはイザヤ書56章7節のみ言葉を引用して、神殿は強盗の巣ではなく、
祈りの家であると教えたのです。そのため宮きよめをイエス・キリストはされました。
現代のキリストの教会も祈りによって建て上げられるものです。ですから私たちは教会で
祈ることの大切さを教えられます。しかし、祈りは楽しい祈りもありますが、痛みを
覚えて祈る祈りもあります。私たちのキリストの教会は今、祈りの家、祈りの教会と
なっているでしょうか。

2.教会は神のもの(17節)
エルサレムの神殿で商売をしている人たちがいて、イエス・キリストは宮きよめを
されました。私たちも「教会は人間のもの、私のものだ」と考えやすいものです。
イエス・キリストの宮きよめをし、「強盗の巣」という告発を祭司長たちは、
自分たちに向けられていると知り、反感をもち律法学者たちとともにイエス・キリストを
殺そうと相談するのです。この後、捕らえられ、イエス・キリストは十字架に
かかられたのです。

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2022年1月7日(日)

●本年もどうぞよろしくお願いいたします。
●1月12日(水)より、通常通り、毎週水曜日の聖研祈祷会がもたれます。

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