これまでの礼拝メッセージ

2020年2月23日(日)「主イエスの洗礼」マルコ1章6~11節

イエス・キリストはバプテスマのヨハネから洗礼をヨルダン川で受けられたのです。
私たちも罪を認め、悔い改めるだけでなく、パフテスマを受けることが必要です。
主なるイエス・キリストが受けられたことで。

1.模範としてのイエス・キリスト(9~11節)
イエス・キリストは罪がないお方ですが、「すべての正しいことを実行するのは、
わたしたちにふさわしいのです。」と。(マタイ3・15)
バプテスマのヨハネから模範としてイエス・キリストは洗礼(パプテスマ)を
ヨルダン川で受けられたのです。そのとき、天から声がしました。
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と。

2.人となられたイエス・キリスト(9節、マタイ3章)
マルコの福音書では「ナザレから来られ」と書かれています。ナザレの田舎で育ち、
神であられたお方が人となられ、へりくだられたのです。人が味わう苦難や試練を
受けるために、神であられるお方が人となられたのです。
ヨハネはパプテスマを授けることを拒みましたが、イエスは受けられたのです。

3.弟子たちにパプテスマを授けることを命令された
主なるイエス・キリストは昇天前にそのことを弟子たちに勧めます。
大宣教命令です。(マタイ28・19)ですから、洗礼を受けることは必要不可欠で、
自分に死に、イエス・キリストにより新しく生きることを意味します。
また水からあがることで、新しくキリスト者として人生を生きることになるのです。
初代教会でも洗礼の儀式を大切にしていて(使徒2・40~42)
洗礼を受けた者はみな弟子として生きたのです。洗礼の意義を正しく知り、
その恵みに感謝して歩みましょう。

2020年2月16日(日)「荒野で叫ぶ者の声」マルコ1章2~4節

イエス・キリストの宣教活動の前、バプテスマのヨハネが登場します。
イザヤが預言した「荒野に呼ばわる者の声がする。」(イザヤ40・3)とは
バプテスマのヨハネを指します。イエス・キリストの道備えをするために
先駆者として登場し、預言の成就でもあります。そして、バプテスマのヨハネの
説教の内容とは、

1.罪の赦し(4節)
「罪の赦しのため」と言います。それにはまず自分が罪をもっていると
自覚する必要があります。しかし、多くの者は自分は罪の赦しが必要ではないと
思っています。罪とはギリシヤ語で「ハマルティア」と言い、「的を外す」
という意味です。私たちが創造された目的とは神を知り、神を礼拝し、
神の栄光をあらわすためです。しかし、そのことがわからず、間違った偶像の神々を
拝み、自己中心の生き方をする、それは的外れの生き方であり、罪の赦しが
必要なのです。

2.悔い改め(4節)
罪の赦しのためには罪を認めるとともに悔い改める必要があります。
悔い改めとは「方向を転換する」ことで、自己中心の生き方から神を信じ、
神を礼拝し、神の栄光をあらわす生き方へと変えることです。
私たちは薄々自分の心の中に荒野があることを感じてはいませんか。
孤独感やむなしさ・空虚感また妬み・憎しみがあり人間関係がうまくいかない
という荒野です。その根源が神のもとから離れているということがわからずに
いるのです。私たちは神により創造された者ですから、神と共に生きる者と
されているのです。今までの生き方を悔い改め罪の赦しのパプテスマを
受ける者となりましょう。今も神はあなたを招いています。

2020年2月9日(日)「福音のはじめ」マルコ1章1節

本日からエレミヤ書を終えて、新約聖書のマルコの福音書から説教します。
ヨハネの福音書以来の福音書からの講解説教となります。
マルコの福音書はペテロの弟子マルコが書き、どの福音書より一番古いと
されています。

1.福音のはじめ(1節)
聖書のはじめの創世記には世界のはじめが記されマルコの福音書の最初に福音の
はじめとあり、イエスの宣教活動が続いています。マタイとルカの福音書では
イエス・キリストの誕生から始まっています。聖書にはいつもはじめがあり、
終わりがあり永遠に不変な真理が聖書にはあります。そして、いかに福音が大切か、
マルコの福音書を通して福音を示され、私たちはその福音を聞き、
信じ、伝える者とされているのです。

2.福音(1節)
福音とは何の意味か、エウアンゲリオンというギリシャ語で、「喜びのおとずれ」
という意味です。使徒パウロは福音をイエス・キリストの宣教と
位置づけをしましたが、宣べ伝えるという出来事を表すとともにその内容をも
言い表す言葉でもあります。(通常、イエスの死と復活がその内容になっている)
私たちは今その福音に与かっています。そして、その福音は四つの福音書のこと
のみではなく、イエス・キリストの十字架の死と復活を伝える使命が
キリスト者にはあるのです。

3.神の子イエス・キリスト(1節)
イエス・キリストは神の子です。当時ローマ皇帝が神のように崇められていましたが、
その中でマルコは「神の子イエス・キリスト」と言いました。
私たちにも「イエスを誰と言うのか?」と、いつの時代にも問われています。

2020年2月2日(日)「エレミヤの最後の預言」エレミヤ書44章24節~30節

エレミヤは反対しましたがユダの民の残りの者たちと共にエジプトへ行きます。
バビロンからの報復を恐れての行動です。紀元前581年頃です。
しかし、バビロンへ捕囚とされたユダの民より信仰を守ることが堅固では
ありませんでした。(43章7節)そんななか、預言者エレミヤに主の言葉が
あったのです。そのことを通して、

1.主の熱心
万軍の主は熱心です。エジプトで信仰を守ることができなかった弱いユダの
残りの者たちに対して、主は見捨てず、預言者エレミヤに語ることを勧めます。
「エジプトの国にいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け」と。
主の熱心をそこにみます。

2.主の憐れみ
エジプトにともに行くエレミヤに対して怒ることも裁くこともせず、
預言者エレミヤに主の言葉がありました。そこに主の憐れみがあります。
しかし、ユダの民には神の裁きがあることを伝えています。
神を侮ってはいけません。罪人と共に歩むことはできません。
私たちもいつも十字架の血潮の赦しを求め、信じ赦された者としての信仰が
必要です。

3.主は希望を与えます
エジプトにいるユダの民には神の裁きがありますが、「剣をのがれる
少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る」(28節)と。
主なるお方はいつも希望のメッセージを与えます。
エレミヤはエジプトで最後を迎えますが、弟子であるエゼキエルが
バビロン捕囚とされます。
後に、預言者として神のことばがエゼキエルにあります。

2020年1月26日(日)「エレミヤの選択」エレミヤ書40章1節~8節

エレミヤはエルサレム進入の際に閉じ込められますが、釈放されます。
そしてバビロン行きをバビロンの侍従長ネブザルアダンより勧められます。
「私はあなたに目をかけよう」と。私たちは自由意志を神から与えられ
将来の行くべき方向を選ぶ必要があります。

1.エレミヤの選択Ⅰ
エレミヤはバビロンに行くことが今崩壊しているエルサレムに残るより
確かな生活が保証されていました。その背景にエレミヤの変わらない
預言者としての姿勢と働きが、バビロン王ネブカデレザルの耳にも
入っていて、それゆえネブカドネツァルはエルサレム陥落後、エレミヤを
優遇するように侍従長ネブザルアダンに特別な指示を与えていたのです。
しかし、エレミヤはその選択をしません。

2.エレミヤの選択Ⅱ
エレミヤは国に残された者と住むことを選びました。そこには生活の保障が
ありません。ユダの王ゼデキヤはバビロンへと連れていかれました。
(39章7節)エレミヤはしかし、残された者たちがいかに厳しい
状況のなかで生きていくかを思いつつ、共に住む道を選んだのです。
かつてモーセもイスラエルの民と共に歩む選択をしました。
エジプトのパロの娘の子として育てられたモーセでしたが、エジプトを捨て、
イスラエルの民と共に苦難の道を選択したのです。
(ヘブル11章24~26節)

エレミヤはエルサレム陥落後も後に残った者とともに預言者としての
奉仕を継続していきました。そして7節には、残された者たちは男、女、
子どもたち、彼らは「国の貧民たち」であったことが記されています。
イエス・キリストは言います。「狭い門から入りなさい」(マタイ7章13節)と。
私たちも楽な道を選ぶのではなく、苦難の道を選ぶこと、そこに神のみこころが
あります。

2020年1月19日(日)「降伏を勧めた預言者」エレミヤ書38章14節~28節

エレミヤは紀元前627年の召命から40年間奉仕をしました。
北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされてから100年以上経ち、
南王国ユダもバビロン帝国に滅ぼされ、エルサレムの神殿は焼かれ、
主だった人はバビロンに捕囚とされる、その激動の中にエレミヤはいました。
エレミヤの動向は、現代の危機的社会のなかにキリスト者が
どのように生きるべきかを示唆しています。
本章に登場するユダの王ゼデキヤは、バビロンによりユダの王に任命された王でしたが
(37章)、動揺してエジプトとも通じ、将来に進むべき道をもたず、困ったゆえに
エレミヤに助言を求めます。

1.降伏への勧め
エレミヤはここまで来たら、無駄な抵抗をしないで降伏することを勧めます。
それを言えばゼデキヤ王の不興を買うことはわかっていましたが、伝えたのです。
ゼデキヤ王はその助言に従わずエレミヤを水だめに入れるのですが、命はかろうじて
守られるのです。しかしその結果、南ユダ王国は滅亡したのです。(39章)

2.神の言葉を聞く大切さ
エレミヤは正確な洞察をして神のみ言葉を預かり、正確に伝えました。
指導者や民はその声を聞くことが大切です。そのようにしなかった王の決断で
多くの者が苦しみ、エルサレムの宮殿も焼かれることとなりました。
降伏することはつらいことですが、私たちも神のみ言葉を聞き、
それに従うことは今までの価値観、経験を捨てることにもなります。
神に信頼するということはそのようなことです。

心の王座にいつも自分がいるのではなく、そこにイエス・キリストを迎え、
生きることそのことが、神に降伏し、明け渡しをするということです。
神のみ言葉を聞き、自我の固まりを砕き、信頼する者となりましょう。

2020年1月12日(日)「書物としての神の言葉」エレミヤ書36章1節~20節

今年もエレミヤ書を通して主のみこころを学び、成長していきたいと思います。
本章はエレミヤが獄に入れられ、バビロンによりエルサレム攻撃が近いところまで
きている時代を背景にしています。

1.エレミヤの試練(1~5節)
今までもエレミヤは迫害を受けていましたが、主の熱心はそんななかでも
「わたしが語ったことばを巻き物に書き示せ」と言われました。
神はエレミヤに語ります。聖書はそのような危機的状況のなかで出来た書物であることを
思うのです。そして神の熱心が聖書をつくりあげていくのです。

2.書かれたみ言葉による神の啓示(6~20節)
ここより神のみ言葉の担い手が預言者から預言書へ、語る人物から語られる書物へ
移行していくのです。バルクによって書きとめられ、朗読され、神のみ言葉が民へ、
指導者へ伝えられていくのです。
エレミヤ、バルクは身を隠くしますが、神のみ言葉は伝えられていきます。
その模様は不思議な気持ちにさせ、生きた神の働きをみることができます。
エレミヤが獄にいるそのような中でも神は生きて働くのです。
神の熱心は民に、指導者たちに神のことばが伝えられることです。
私たちもそのような背景のなかで完成した聖書。書物としての神の御言葉を聞く者として
またそれを伝えていく者でありたい。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」
(Ⅱテモテ4・2)

3.信仰は神の言葉を聞くところから(ローマ10・17)
信仰は神の言葉を聞くところからうまれてくるのです。聖書を通して
信仰が養われていくのです。

2020年1月5日(日)「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」イザヤ書40章31節

新年礼拝は毎年教団の標語と聖句から説教しています。
「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」は昨年と同じ標語です。聖句は違っています。
標語をみるとなかなかその働きが進まないのも現実です。しかし、嘆くだけではなく
2019年度の教会標語のように「希望をもって生きる」ことが大切です。
私たちキリスト者は、

1.若者さえも疲れること(30節)
疲れるのは高齢者だけでなく、若者も疲れるのです。若い人ほどストレスに弱いという
統計があるそうです。神に選ばれているキリスト者も主を待ちのぞむことをしないと
いつも疲れるのです。

2.主を待ちのぞむ者への約束(31節、マタイの福音書28章19,20節)
「待ち望む」とは物をつかもうとして体を張る動作のことです。そこから
「熱心に期待する」「待ち続ける」という意味があります。
人間に期待すると失望します。イザヤは若い時から主から「人間に頼るな」という
メッセージを聞いていました。
「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(2・22)
そして主を待ち望むことを勧めています。そのとき主から力を得るのです。
その力は生きる力であり、希望をもって生きる力なのです。
また主を待ち望む者には聖霊が注がれるのです。
シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。
そのとき聖霊が宿ったとあります。(ルカ2・25)
聖霊が宿っていたとき主の恵みがあり、翼をはって上ることができる力を得、
そのような者はキリストの教えを守り、キリストを証する者とされるのです。
そこから次世代への宣教や信仰継承が進んでいくのです。

2020年1月1日(日)「新会堂を目指して(教会の一致)」エペソ4章3節

上記の表題で2020年の元旦礼拝がもたれました。

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