これまでの礼拝メッセージ

2019年3月10日(日)「絶望のなかで」エレミヤ書3章24~25節

3章はエレミヤがヨシヤ王の時代(紀元前640年から609年)に預言したもので
その内容はイスラエルの民が苦難のなかにいて
すべてを失う絶望のなかで生きることの内容でした。
神は神を愛する者をもときには苦難を経験させることを教えているかのようです。

1.偶像礼拝の結果(24、25節)
バアル信仰をイスラエルの民はもっていました。
バアルは豊かな収穫の神とされていましたが、そうではなく
祝福を奪うものであることを24節は意味しています。
そしてその結果その偶像礼拝ゆえにイスラエルの民は
(1)神の祝福を失い、大切なものを失うことになる。
聖書の神はねたむ神であることをキリスト者は忘れてはいけない。
神の戒めのように「主を愛し、心を尽くし精神を尽くして仕える」(申11・13)を
いつも覚えたい。

そして偶像礼拝の結果
(2)恥を受ける。
25節には「恥の中に伏し」とあります。日本人は江戸時代、武士が恥をかく位なら
切腹するということがありました。恥をかくことを嫌う国民です。
イスラエルの民も同じです。それゆえ「恥の中に伏し」とは大いなる屈辱です。

2.絶望のなかで(25節、マタイの福音書27章46節)
イスラエルの民は罪の結果、絶望のなかに歩むことになります。
そして絶望したものは絶望を経験したものしか救うことができないのです。
私たちのイエス・キリストは十字架にかかられたお方です。
そこで父なる神に見捨てられ、闇を経験したお方。
それゆえ絶望した者を救うことができるのです。今、希望をもてず、混沌としているなら
十字架のイエス・キリストを仰ぎ見ましょう。そのお方はすべての人の救い主です。

2019年3月3日(日)「慰めの招き」エレミヤ書3章1~25節

エレミヤが預言者として召命を受けた当時は、アッシリヤに北イスラエルを
滅ぼされた後で南ユダの民も自分の罪をも認めず、偶像礼拝の罪を犯し、
頑なな態度をとっていました。そんな中、エレミヤは神の民に預言をするのです。
その内容とは、

1.罪の現実を知ること(1~13節)
偶像礼拝の罪が男女間の姦淫の罪のように重く、南ユダの民はあいかわらず
「その淫行を行った。」とあります。(6)
十戒に「姦淫をしてはならない」(出エ20・14)とあります。
また「あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。
・・それらを拝んではならない。」(出エ20・4,5)とありながら
それを頑なに守らない民の姿がそこにあります。
現代のキリスト者にとっても偶像礼拝は罪であり、それをやめることなく
続けるときは神の裁きを受けるのです。
イスラエルでは姦淫の罪を犯した者は石打ちの刑に処されるのであります。

2.神が「立ち返れ」と言われたこと(11、14、22節)
「背信の女イスラエル。帰れ。」とエレミヤは伝えます。
女性だけではありません。男性も偶像礼拝をする者、罪を犯した者に神は
「立ち返れ」と招いています。

3.驚くべき神の慰めの招き(22節)
「背信をいやそう」と。そこに神の性質である「愛とあわれみ深さ」が示されています。
神は怒り続けるのではなく、罪をいやすこともできるお方です。
私たちにはさらに主なるイエス・キリストの十字架があります。
十字架にはいやしがあります。そしてそこにイスラエルの民同様に
神の愛とあわれみ深さがあるのです。
その愛とあわれみで今日も神はあなたを招いておられます。

2019年2月24日(日)「はじめの愛に帰ろう」エレミヤ書2章1~13節

エレミヤが預言者として召命を受けたときは紀元前626年ころで
ヨシヤ王の治世のときです。当時アッシリヤは北イスラエルを滅ぼし(紀元前722年)、
南ユダも支配下においていました。しかしアッシリヤの国力衰退とともに南ユダでは、
ヨシヤ王が登場し、北イスラエルの領土回復と南北統一を目指していました。
しかし、イスラエルの民は相変わらず異教の神々を拝み、
また国力は衰退していったのです。そこでエレミヤは、イスラエルの民の背信を問うているのです。

1.はじめの愛に帰ろう(2節)
はじめの愛とはイスラエルの民がどのようなところから救われたのか、
過去の歴史のこと。イスラエルの民はエジプトの奴隷から解放され、
約束の地を目指し、荒野の旅をしていました。
そのときの民の神への愛、従順さを思い出しないと伝えます。
なぜなら今はイスラエルの民が神に選ばれた選民であり神の花嫁であったはずなのに
夫を裏切り、他の男になびくように他の神々を拝むようになっているからです。
エレミヤ書はホセア書のようにイスラエルの民と神との関係を父と子ではなく、
ここでは夫婦の関係であらわしています。

2.偶像の神を頼ることはむなしい(13節)
イスラエルの民は生ける水の源を捨て、偶像の神、役にも立たない水だめを
求めたのです。その結果アッシリヤは強くなり南ユダを支配し、
後にはエジプトの植民地ともなるのです。ヨシヤ王はメギドの戦いでエジプト軍に
殺されるのです。(紀元前609年)
まことの神でなく、偶像の神々に頼ることはむなしいこと、勝利はないことを
現代の私たちに伝えています。

2019年2月17日(日)「預言者としての使命」エレミヤ書1章10~19節

エレミヤに与えられた預言者としての使命は、人を恐れず神の言葉を伝えることと
ビジョン(幻)をみることです。
私たちキリスト者にも同じ使命が神から与えられています。直接献身者だけのものでもありません。エレミヤは

1.神の言葉を伝えること
彼がとりつぐ神の言葉は「引き抜き、・・引き倒し、・・滅ぼし、あるいは建て、
また植えさせる」です。この言葉はエレミヤ書全体の主要なテーマであります。
この「引き抜き、倒し、滅ぼし」はエルサレムの崩壊とバビロン捕囚で
「建て、植えさせる」は捕囚からの帰還と共同体の回復を意味しています。
それをエレミヤは長き間語り続けるのです。
エレミヤに神の言葉があったことは神のみわざの一つです。
「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」と
ヨエル書2章18節にあるように神はイスラエルの民を愛しておられます。
神を愛することとは神が愛する民を愛することでもあります。
神の言葉を伝える預言者としての使命を果たすことこそ現代のキリスト者に
求められていることです。

2.ビジョン(幻)をみること
「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2・28)
若い男は幻を見るとあります。若きエレミヤも幻を見ます。
アーモンドの枝と煮えているかまです。アーモンドの枝の原語の意味は
「見張っている」です。現代のキリスト者は地の塩として民が罪を犯し
堕落しないように見張る使命があるのです。
煮え立っているかまは北のほうから傾き北の国より攻められることの預言です。

2019年2月10日(日)「若く未熟なエレミヤの祈り」エレミヤ書1章1~10節

本日からエレミヤ書に入ります。今から2500年以上も前のエレミヤと
神との出会いが1章に記されています。神の召しに困惑し激しく抵抗している
エレミヤ。神の言葉が迫り、捉えられたエレミヤ。そのエレミヤが後、
逆境の中でも神の言葉を語り続ける姿がエレミヤ書にあります。
エレミヤはアナトテの地で祭司の子どもとして育ち、ダビデの時代に活躍した
祭司エブヤタルの子孫とも言われています。

1.神に選ばれたエレミヤ(4、5節)
エレミヤに神の言葉が迫り、与えられます。「主のことばが私にあった。」
と(1節)、また、そこに神の選びがあり、また神は「あなたを国々への預言者と
定めていた」(5節)と。強引のようですが神は選び、任命するお方です。
わたしたちもイエス・キリストより選ばれた存在で弟子として任命しているのです。
(ヨハネ15章16節)
弟子には神の言葉を伝える使命があります。「みことばを宣べ伝えなさい。
時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4章2節)

2.若く未熟なエレミヤの祈り(6節)
エレミヤは神の招きに拒否をします。若く、未熟であるからという理由で。
当時25歳ぐらいと言われていますが父の祭司の仕事をみて大変さを感じたり、
当時のイスラエルの民の堕落している様子をみても不安になったのでしょう。
エレミヤに同情すべきところはありますが神と向き合って祈りの応答をしたエレミヤに
私たちは学ぶべきです。神のみ前に隠すことなく自分の気持ちを神にぶつけることは大切。誰しも神の働きのことを思うとき未熟さを感じますが、エレミヤはそれを受け入れました。今日も神は現代のエレミヤを求めています。

2019年2月3日(日)「最終ゴール」創世記49章29~33節 創世記50章24~26節

今日の聖書箇所はヤコブとヨセフの最後のときです。
人はいつか地上の生涯を終えることは定まっています。しかし死が終わりではなく、
信仰者にはいくべき場所が神により用意されています。
ヤコブもヨセフも信仰により後の者に自分の埋葬のことを伝えています。
そしてその場所はエジプトではなくカナンの地でした。

1.ヤコブの場合(創世記49章29~33節)
ヤコブは繰り返しエフロンの畑の地に自分を葬ることを伝えています。
そこはアブラハムとサラ、イサクとリベカそして自分の妻レアがすでに葬られている
地です。そこに葬ることを子たちに言います。異教の地ではなく神が約束した地である
カナンにこだわったのです。ヤコブの子は遺言を守り、そこに葬ります。(50・13)
わたしたちのカナンの地は主イエス・キリストが用意してくださった場所です。
(ヨハネ14・2)

2.ヨセフの場合(創世記50章24~26節)
ヨセフも同様自分を葬る場所にこだわります。エジプトの地は自分の好む地ではなく、
兄に憎まれ売られ、奴隷としてきた場所です。しかし、そのエジプトで成功し、
一生を終えます。しかし、最後に父ヤコブと同じ場所に葬られることにこだわり
「私の遺体をここから携え上ってくださいと言った。」と。(25節)
私たちは天国の民ではありますが、その地においてしっかりと生きることも大切です。
そして人生の最終ゴールのとき信仰をしっかりもち、天国の民であることを再度確認
することが必要です。ヨセフは信仰により信仰列伝のへブル11章に名が残るのです。
(へブル11・22)

2019年1月27日(日)「ヤコブの祝福」創世記49章1~33節

本章は創世記のなか重要な箇所で12章のアブラハムの約束からはじまり
ヤコブを通して語られた神の約束と祝福で(50章はあります)創世記は完結し、
イスラエル民族の出発につながります。
そしてそこにイエス・キリストの預言があります。
ヤコブは子どもたちへの祝福とともに未来のことを預言したのです。

1.行為による祝福
3節のルベンは長男でしたが父親のそばめと肉体関係をもち(35章22節)
長子の権を失います。まだ律法ができていない時でしたが、
父の権威を失墜させたことでその報いを受けます。次男シメオンと三男レビも
残虐な行為で一つの町を全滅させ、ヤコブの立場を困難にさせました。(34章30節)
それゆえ四男のユダが長子の権をもつことになります。
ユダとヨセフはヤコブの家族を救う役目を果たして多くの祝福を受けます。
そして「王権はユダを離れず」(10節)そのことでユダ族にダビデ、ソロモンが
後に王となり、まことの王であり救い主であるイエス・キリストにつながるのです。

2.信仰による祝福
レビは散らされることになりますが、出エジプトのとき率先して神に従ったことで
レビ族は聖別され祭司の役目を受けます。呪いはそこで失われています。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはありません。」(へブル11章6章)
そのことは今も同じです。私たちも過去に多くの罪を犯していても悔い改めるなら
イエス・キリストの十字架の血潮で赦され、神の尊い働きに用いられる者と
されるのです。信仰によりアブラハム、イサク、ヤコブは祝福を受けたのです。
ヨセフも信仰により特別な祝福が与えられたのです。(へブル11章22節)

2019年1月20日(日)「祝福された弟」創世記48章1~20節

ヤコブは高齢となり病人となります。地上の最後の時を迎えてヤコブは力をふりしぼり、
ヨセフの子のエフライムとマナセを養子とし、ヤコブの子としたのです。
そして神の祝福を祈りました。長子であるマナセを右の手に置くべきなのに
弟のマナセを右の手に置きヤコブは祝福するのです。
そのことは

1.神の祝福は人知を超えて
ヤコブも次男であるのに神は長男のエサウよりヤコブを選び祝福し、イスラエルの名を
与えました。兄エサウはエドム人の先祖となりました。
「一つの国民が地の国民より強く兄が弟に仕える。」(25章23節)
この言葉は主がヤコブの母リベカに伝えたものです。「兄が弟に仕える」ことは
あり得ないことですが、それが神の約束でした。
そのことがヤコブの生涯のなかに現実になされていったのです。
ヤコブの生涯は困難な生涯でしたが神の憐れみがいつもヤコブの上にありました。
ヤコブには人間の考えや思いを超えて神の選びがあったのです。パウロは言います。
「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」
(Ⅰコリント1章28節)

2.神の祝福は成就します。
この後、ヨセフの子エフライム、マナセはエフライム族、マナセ族となり、
カナンの地で多くの土地を得ます。神の祝福がその一族の上にあったのです。
そしてエフライム族からヨシュアが生まれ、ユダ族の近くの土地に住みます。
後の祭司のサムエルもエフライム族です。神の祝福は成就するのです。
私たちも神の祝福の民です。そのことを信じ、神の子どもとしての自覚をもって
日々過ごしましょう。

2019年1月6日(日)「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」
出エジプト33章14節、マルコ10章14節

新年礼拝は2019年度教団標語と聖句からの説教です。
標語は「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」このことは教団の危機、教会の危機を
示しています。教会が高齢化し将来へ不安を感じているからです。
また教会の使命が宣教であることを忘れてはいないか問われています。
教団委員長の水野晶子師の1月号の月報では
「2019年を迎えました。現代ほど、先がみえない、ビジョンがたてられない時代は
ないといわれています。何が起こるかわからない不安や恐れを抱えています」と。
しかしモーセはそのような時代神に祈り、重荷を負い、前へ進みました。
その秘訣は

1.神が共にいる臨在信仰(出エジプト記33章14節)

「わたし自身がいっしょに」と神がともにいると。私たちの神はインマヌエルの神で、
永遠の神です。その言葉には私たちの重荷を知り、負うことを意味します。

2.神が安息を与える信仰(出エジプト記33章14節)
若い人も老人も大きなストレスやプレシャーを抱えています。
若い人は特にそのようなもので押しつぶされ病気になる人も多いのです。
若いときに神を知ることが一番大切なことです。(伝道者12・1)
親も教育、スポーツも大切ですが、神を知ることが大切。

3.神の言葉で生きる信仰(マルコ10章14節)

教会では神の言葉が語られ、聖霊の働きがあります。
子どもや孫たちを愛するならばイエス・キリストのもとへ連れて行かなくては
いけません。迫害を受けてもです。それ以外に霊的な成長はないからです。
人間の人格的教育は聖書の言葉からなされていくものです。(マタイ4・4)

2018年12月30日(日)「幼子イエスをささげて」ルカ2章21~24節

今年最後の礼拝です。ルカ2章を通してイエスの父ヨセフと母マリヤの信仰を
ともに見ていきたいと思います。

1.「イエス」と名をつけた。(21節)
ヨセフは「イエスとつけなさい」と主の使いより言われその通りにしました。
(マタイ1章25節)
それゆえ、幼子は「イエスという名で呼ばれることになった」とあります。
神に従うヨセフがいます。イエス・キリストは後に言います。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることは
できません。」(マルコ10章15節)幼子のような素直な信仰が求められます。

2.律法を守りました。(22節)
両親はモーセの律法に従って、幼子を主にささげるために、エルサレムの宮へ
行きました。当時正しい人とは律法や儀式を守る人でした。
エジプトの奴隷であったイスラエルが、エジプトを脱出する最後の時に、
エジプト人の初子は神に殺されたが、イスラエルの初子は殺されないで
過ぎ越されました。
それを記念して、イスラエルのすべての初子を神にささげるという儀式を
していたのです。

3.犠牲をささげた。(24節)
ヨセフとマリヤは儀式のとき「山ばとと一つがい、または、家ばとのひな二羽」を
ささげました。(レビ12章)
この時、イエスは生かされましたが、当時ベツレヘムの2歳以下の男の子は殺されました。
私たちの救いにもイエス・キリストの十字架の犠牲があります。
我々の生は、そのように何らかの形で誰かの犠牲によって成り立っていて、
誰かの愛を受けてはじめて生きることができるのです。
どうか神と隣人に感謝する人生を。そして犠牲を伴うささげ物を神にささげましょう!

2018年12月23日(日)「インマヌエル」マタイ1章18~25節

メリークリスマス。待ち望みましたクリスマス礼拝です。
なぜ全世界で、そしてこの鈴蘭台の地でも共にお祝いするのか?
それは神の御子なるイエス・キリストが私たちのために地上においで下さった日であり、
クリスマスだからです。
二千年前、ダビデの町と呼ばれていたベツレヘムでお生まれ下さったお方は
二つの名前で呼ばれていました。それは、

1.「イエス」と呼ばれます。(21節)
ヨセフとマリヤに誕生した子に「イエスとつけなさい」と主の使いより言われます。
イエスとはヨシュアというへブル語名のギリシヤ語の形で「主は救い」という意味です。
それは罪から救う救い主であることを示しています。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と主の使いは
ヨセフに言います。ヨセフは「正しい人」(19節)ですが、しかし、
完全な正しい人ではありません。ヨセフ自身罪をもち、救い主が必要な人でした。
「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3・10)
全ての人に罪から救う救い主が必要です。

2.「インマヌエル」と呼ばれます。(23節)
「インマヌエル」とは「神が私たちと共に」という意味です。
人は孤独ではなく、神が共にいてくださる存在です。ヨセフはマリヤと離縁し、
責めを自分が受けようと思いました。しかしそれは孤独です。
そのことを防ぐためにも主の使いは「恐れないで・・迎えなさい」(20節)と言い、
神が介入します。私たちを罪から救い、共にいて下さる神の御子なるイエス・キリスト。
そのご降誕を共にお祝いしましょう。

2018年12月16日(日)「主は聖霊によりて宿り」マタイ1章18~25節

今クリスマスを待つ待降節の日々を過ごしています。
そして今「主イエス・キリストの誕生の次第」の箇所を読んでいます。
そこを読むと大変興味深いです。
そしてクリスマスの出来事は神の奇跡によってなされていることがわかります。
聖書は主イエスの誕生を「聖霊によって身重になった」(18節)と記しています。
まさにそこが大事です。

1.キリスト者の信仰告白として、告白されています。
キリスト者の信仰告白、使徒信条では
「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」と告白します。
マリヤの胎に宿った主イエス・キリストは、聖霊によりて宿っていたのです。
その証拠として
(1)聖書に証されている
(2)ヨセフはとまどい離縁しようと考えた
(3)イザヤの預言が成就した(イザヤ7-14)

2.神の奇跡の業です。
「聖霊によって身重になった」ことは、まさに神の奇跡のみ業で、
御子イエス・キリストが罪のない存在で生まれてきたことを示しています。
そして聖なる神性がゆるがないものであることも示しています。
それは人々を罪から救う者となるために必要なことでした。
イエス・キリストはすべての人の救い主(メシヤ)だからです。

3.新しい時代の到来です。
神が聖霊によりて受肉した以上、
今までの律法や、世の規則が支配したことの終わりを意味します。
新しい生き方が、み言葉に聞く信仰から生まれてくるのです。
律法の義ではなく信仰による義、恵みにより義とされる新しい生き方です。

2018年12月9日(日)「よみに床を設けても」詩篇139篇1~12節

聖書に示される神は自分のことをよく知っている神です。ダビデは言います。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っています。」(1)と。
神は多くの人の中からの自分を知っているのです。
そして聖書を通して私たちに語りかけているのです。

1.人はみな罪人であり、心に闇を抱えます。
ダビデはこう言います。
「私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」(8)
よみとは神のひかりが届いていない場所です。
しかしダビデはそこに神がおられると言うのです。
しかし多くの人はダビデとは違い、やみの世界のなかで光があることを知らず、
見えていないのです。
創世記1章では、
「やみが大水の上にあるところに神は仰せられた。
『光があれ』すると光があった。」(創1・3)と教えています。
このことはどんなやみでも光が差すというメッセージがこめられています。
ただ、人はそのひかりを見えていない人が多いのです。
イエス・キリストの弟子のユダのように、イエス・キリストと共にいて
心に闇を抱え続け、苦しみ続けるのです。

2.イエス・キリストこそ憐れみの光であること
イエスを裏切ったユダは、心の闇に、光なるイエス・キリストが
照ること、神のあわれみを知ることがなかったのです。
使徒信条に「主は・・十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」
とあります。
またヨハネの福音書では「すべての人を照らすそのまことの光が
世に来ようとしていた」とあります。
あなたの心を照らすために、まことの光、憐れみの光として来られたお方が
主なるイエス・キリストです。
その光は昔も今も輝き照らすことを止めません。

2018年12月2日(日)「」イザヤ書53章11~12節

日本人の4分の一以上がクリスマスは何をお祝いするか知らないと言われます。
本来クリスマスはChirstmasはCrist+mass
(キリストのミサ)つまりキリストを礼拝する時です。
クリスマスからキリストをとるとただのmass(集団・固まり)と
なってしまいます。集団で騒いで終わらせるのは空しいもののです。
そのためにはクリスマスの中心であるキリストを知ることは重要なことです。
キリストが人となられたのは事実で「この人であった」と。
イエス・キリストが人となられることは先に預言者であるイザヤが
預言していました。
キリストが人となられ、来られたのには大きな目的がありました。

1.神の子となる特権を与えるため(ヨハネ1・12)
人となられたイエス・キリストを救い主として信じるとき、
その権利が無条件に与えられるのです。

2.豊かな人となるため(Ⅱコリント8・9)
しかし、パウロはこう言います。
代りにイエス・キリストが貧しくなられたのです。

3.隣人にも注意を払うため(ピリピ2・4)
本来人は自分中心な者です。しかし自分のことだけでなく
他人のことも注意を払うようになり、愛を示します。
このために彼(イエス・キリスト)は来られたと預言者イザヤは
700年前から預言するのです。それは神の愛がそうさせていると言われます。
神は愛だからです。
今年のクリスマスはキリスト不在でなく中心にあるクリスマスで
ありますように。
神が人となられた目的を思い、その心を思いめぐらすアドベントの時と
しましょう。

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