礼拝メッセージ

2018年4月22日(日)「信頼と委託」創世記24章1~27節

23章でアブラハムの妻サラが死に、埋葬されたことが記され24章はイサクの嫁探し。

埋葬と結婚は人生の最も重要な事柄でお葬式と結婚はこれをなすことで

人は世代交代をします。アブラハムにとってイサクの嫁探しは重要なこと。

偶像の神々を信じている地域に拠点をおいていたので、

信仰の継承のためには重要なことだったのです。

 

1.大切な役目を受けた年寄りのしもべ(1~9節)

アブラハムからイサクの嫁探しを一族の住む故郷から選ぶように託されたのは

年寄りのしもべで、そのしもべを信頼したアブラハム。

まさにイエス・キリストと私たちとの関係に似ています。

イエス・キリストは大切な使命を私たちに委ねています。

タラントのたとえがそうです。「私の代わりに働いてくれよ」と信頼して

任せています。(マタイ25・14~30)

 

2.しもべの計画と祈り(10~27節)

使命の大切さを知るしもべは自分の経験だけに頼らず、神に祈ります。

そしてイサクの相手に優しさといたわりを求めます。

夫婦に大切なことは同じ価値観をもつこと、

そして妻は夫を支える優しい気持ちが必要。(創1・18、24)

アブラハムは旅人をもてなすことを重要なこととし、その姿を見ていたしもべ。

自分に水を汲む、またそばにいるらくだにも。

そのように故郷の一族の中から優しい、思いやりの人を求めた。

女性に限らず男性も御霊の実は「愛、・・親切、善意」(ガラ5・22)があり、

現代のクリスチャンも、自分の自我を十字架につけ御霊の実を結ぶように

求められています。

 

2018年4月15日(日)「主の山に備えあり」創世記22章1~14節

アブラハムは不信仰のなか、約束の子のイサクが与えられました。

まさにアブラハムの信じた神は全能の神であることを再確認できたのです。

そのアブラハムに神は愛するひとり子イサクをささげることを命令されたのです。

ここで教えられることは、

 

1.理解しがたい神が与えた試練(2節)

まさに理解できない神の試練をアブラハムは受けます。

そして、それを実行するためにモリヤの山にイサクを連れていったのです。

 

2.アブラハムの信仰による従順(3節~10節)

アブラハムはひとり子をささげる神の命令に従順に従いました。

それは神への信頼からくる従順です。

イエス・キリストもおのれを低くし、死に至るまで父なる神に従順でした。

(ピリピ2・8)まさにアブラハムは従順な者だったのです。

 

3.アブラハムの復活信仰(へブル11章17~19節)

へブル人への手紙11章17~19節を読むとき、アブラハムが、

死からよみがえる復活信仰をもっていたからイサクを取り戻したと記されています。

それゆえ愛するイサクを犠牲にすることができたのです。

しかし、イサクは死ぬことがなく、代わりにモリヤの山にいた雄羊が燔祭として

ささげられました。まさに主の山に備えありでした。

私たちの救いのためには、主なるイエス・キリストは十字架上で犠牲の死を

なしとげられました。つまり父なる神は愛するひとり子を惜しまずささげたのです。

(ヨハネ3・16)それは多くの私たち罪人の救いのためです。

 

2018年4月8日(日)「皮袋の水は尽きる」創世記21章1~21節

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12・13)

悲しむ者と共に悲しむことができても、喜ぶ者と共に喜ぶことは

なかなかできないものです。

人の幸福を喜べないそんな人間の弱さを思います。

アブラハムとサラとの間に待望の子どもイサクが与えられます。神の奇跡の業です。

しかしそのことでまた別の問題が起こります。

サラとハガルとの間、イサクとイシュマイルとの間に。

イサクが成長したとき、イサクがイシュマエルにからかわれます。

それをみたサラが気分を害するのです。

 

1.子の罪は親のせいか?(8.9節)

子の犯した罪は親のせいなのか?そんなことを考えます。

しかし、子は親から学ぶこともあります。

ハガルがかつてはサラの女奴隷の身だったのに、サラを見下したこと。

その母に対して子のイシュマエルのした行為はやはり妬みの罪です。

罪の報いは必ずあること。そのことを聖書は伝えています。

 

2.ハガルとその子の二回目の荒野追放(14~19節)

ハガルとイシュマエルは荒野に追放されます。

そのことを神は許しているかのように。アブラハムは前回と違い、少しの優しさとして

パンと皮袋に水をもたせます。しかし、その皮袋の水は尽きたのです。

絶体絶命の危機です。神は神に寄り頼むものを顧みられます。

自分に頼らず、人に頼らず、神のみ信頼するものを神は助けます。

イエス・キリストが十字架で死を経験し、復活されたように。

自分に死ぬ経験がキリスト者には、必要です。

神は少年イシュマエルの声を聞かれたのです。

 

2018年4月1日(日)「死に勝利し、復活されたイエス」マルコ16章1~20節

本日はイースター(復活祭)の記念すべき良き日です。

イースターおめでとうございます。本日この聖書箇所よりイースターメッセージを

とりつぎます。イースターでの出来事は、

 

1.驚くべき歴史的事実(1~7節)

イエス・キリストの十字架、そして3日目によみがえられた復活は歴史的事実です。

これは誰にもくつがえされることはできません。

イースターの事実こそ、キリスト教が今日まで存在し、教会も存在し続けている

ゆえんです。

 

2.人間が簡単に信じられない出来事(8~14節)

この復活は弟子たちやそばにいた女性たちも信じられないほどで、

空(から)の墓も見ても信じられない女性たちがいました。

主の復活は人間が簡単に信じられない出来事であることを示しています。

 

3.信じる者に喜びと希望を与える出来事(15~20節)

人間が容易に信じられない出来事、この復活を信じた者は、

悲しみから喜びに、絶望から希望へと導かれます。

そして信じた者たちが復活の証人として命がけで人々に伝えてゆくのです。

死が終わりではなく、天国が存在し、

十字架で無力で敗北者のような姿を見せたイエス・キリストが

復活により勝利者としての姿と変えられます。

私たちの罪のために死なれたイエス・キリストは、私たちを共によみがえらせる恵みを

与えました(エペソ2・6)。死は天国への入り口です。

イエス・キリストを信じるとき、救いの喜びと、永遠の命の希望をもつのです。

 

2018年3月25日(日)「わが神よ、あなたはなぜ」マタイ27章22~50節

エルサレムに入られたイエス・キリストは多くの群集の歓迎にあったが、

一変してイエス・キリストは捕えられ、鞭打たれ、

エルサレムの門の近くのゴルゴダの丘で十字架に架けられたのです。

その十字架は、

 

1.歴史的事実としての十字架

マタイだけでなく、他の福音書もイエス・キリストの十字架が記されています。

そして弟子たちも十字架に架けられたイエス・キリストを大胆に伝えていったのです。

十字架はまぎれもなく歴史的事実です。

 

2.理不尽な十字架

イエス・キリストは神の御子でありながら

理不尽な刑として十字架を受けられました。

そこにはイザヤが預言したとおり苦難の十字架。(53章)

イエス・キリストは世の理不尽さを身に受けました。

私たちも「わが神よ、なぜ」という問いをする者です。

理不尽な扱いを受け、苦しむこともあります。

イエス・キリストはそのことも体験されたのです。

「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

(へブル4・15)それゆえ私たちに同情でき、救うことができるのです。

 

3.すべての人の罪を背負う十字架

イエス・キリストは最後まで罪を犯さず、苦しみを受けて叫び、

その叫びは捨てられるはずのない御子がすべての人の罪を背負い

神の裁きを受けた証です。

イエス・キリストが十字架を拒否し架からなかったとしたら、

神の裁きが下り、全人類は滅びてしまったことでしょう。

イエス・キリストの十字架によって私たちの罪は赦され、

永遠の命を得ることが出来たのです。

 

2018年3月18日(日)「手でつかんで救う神」創世記19章1~26節

聖書の神は愛なる神と同時に義なる神で、

 

1.悪を裁かれる神

18章でソドムとゴモラの人々の罪のゆえ町が滅ぶことを

神の友であるアブラハムには教えられていたをみましたが、

そのことが現実に起きたことのです。

義なる神は悪をそのままにはなさらないのです。

「罪からくる報酬は死です」(ローマ6・23)という言葉は真理です。

人は自分の都合の良い神をつくりだし、自分の罪をもあいまいにしやすいのです。

ソドムゴモラの人々は以前から「ソドムの人々はよこしまな者で、

主に対しては非常な罪人であった。」(13・13)

そして今性的にも堕落して、不道徳が若者から老人まで広がってきたのです。

(19・4,5)

そしておとぎ話のようですが歴史的に実際に起きた事件なのです。

神は天から硫黄の火を降らせ、ソドムとゴモラを滅ぼしました。

 

2.祈りを聞かれる神

アブラハムのとりなしの祈りで甥ロトを救う道を神は用意されました。

ロトはソドムの町から離れず、罪の誘惑に負けていた者でした。

そして影響を受けていました。

妻はそれを慕う心をもち塩の柱になりました。

 

3.義人ロトを救う神(Ⅱペテロ2・7)

ペテロの手紙第二ではロトを義人ロトとしています。

最後までためらうロトに主の使いはロトそしてその妻、その娘の手をつかみ、

救おうとしたのです。(16)神のあわれみです。

私たちキリスト者の救いもみな神の憐れみがあり、

ただ恵みにより救われているのです。そして義と認められるです。

(エペソ2・4.5)

 

2018年3月11日(日)「神との駆け引き」創世記18章23~33節

神との駆け引き(交渉)とは本来良いことなのか、恐れおおいことではないか。

しかしアブラハムは創世記18章後半でしている。

そのことを神の赦しのなかで行われていた。

アブラムハムは神の友であり、隠されていたことも教えている。

私たちも隠されている奥義が聖書により明らかにされ信仰をもっているのです。

 

1.神の友アブラハム

ソドムとゴモラの人々が罪のゆえ町が滅ぶことをアブラハムには教えられていた。

私たちも神の友ゆえ、奥義を知る者とされている。

十字架の奥義、神の国の奥義など

それゆえ大胆な信仰をもち続ける力となっていくのです。

 

2.アブラハムの熱心なとりなしの祈り

神との駆け引きでもあるがとりなしの祈りです。

その祈りは甥のロトに対する愛の祈りです。

自己愛ではない他者への愛から来たものです。

そして神への信頼による祈りです。祈りは神への信頼なくしてできません。

必ず祈りを受け止めてくださる方だと信じて祈るからです。

これが神への信頼です。

そしてかつて「ひれ伏し、そして笑った」(17・17)アブラハムが

「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。」

と祈ります。

神へのとりなしの祈りはまた謙遜な者しかできません。

神は祈りを聞き、ロトとその家族を救うことを引き受けるのです。

ソドムゴモラから離れないロト、その家族にも問題がありますが、

神は祈りを聞かれるお方。

そしてキリスト者は祭司の仕事をも与えられています。

とりなしの祈り手になりましょう。

 

2018年3月4日(日)「ひれ伏して、笑った」創世記17章15~25節

アブラムが99才の時、再び神の言葉が臨んだ。そして、アブラムは神と契約を結び、

名前も新しい名前アブラハムを頂くアブラムでしたが、神の約束の言葉を素直に聞いていますが、

すべてを信じることができませんでした。信仰の父と呼ばれるアブラハムでしたが、信じられず、

 

1.ひれ伏して、笑ったアブラハム

「ひれ伏して、笑った」とは興味深い言葉です。神にひれ伏す態度を示しながらも、

神の約束を信じられず、笑ってしまうアブラハムがそこにいます。

不信仰の笑いです。後には妻のサラも笑います。

私たちキリスト者は神のみ言葉を土台として日々養われ、支えられ、強められる者として歩みたいです。

イエス・キリストはこのように言います。

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

(マルコ13・31)

私たちは不信仰に傾きそうになる自分をいつも信仰の方向へしっかりと身体を向け、

み言葉を土台にすること。そのことが重要です。

 

2.アブラハムを見捨てない神

アブラハムは、不信仰で笑い、神の約束を自分の解釈でまだ誕生しないイサクでなく、

イシュマエルを跡継ぎにすることを思うのです。

しかし、神の選びは変わらず、アブラハムを選んだ神はこれからもアブラハムを導き続けるのです。

神の忍耐がそこにあります。私たちキリスト者にも同じです。

忍耐と励ましの神が私たちの神で、どんなときでも導いておられるのです。(ローマ15・5)

 

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