これまでの礼拝メッセージ

2020年1月12日(日)「書物としての神の言葉」エレミヤ書36章1節~20節

今年もエレミヤ書を通して主のみこころを学び、成長していきたいと思います。
本章はエレミヤが獄に入れられ、バビロンによりエルサレム攻撃が近いところまで
きている時代を背景にしています。

1.エレミヤの試練(1~5節)
今までもエレミヤは迫害を受けていましたが、主の熱心はそんななかでも
「わたしが語ったことばを巻き物に書き示せ」と言われました。
神はエレミヤに語ります。聖書はそのような危機的状況のなかで出来た書物であることを
思うのです。そして神の熱心が聖書をつくりあげていくのです。

2.書かれたみ言葉による神の啓示(6~20節)
ここより神のみ言葉の担い手が預言者から預言書へ、語る人物から語られる書物へ
移行していくのです。バルクによって書きとめられ、朗読され、神のみ言葉が民へ、
指導者へ伝えられていくのです。
エレミヤ、バルクは身を隠くしますが、神のみ言葉は伝えられていきます。
その模様は不思議な気持ちにさせ、生きた神の働きをみることができます。
エレミヤが獄にいるそのような中でも神は生きて働くのです。
神の熱心は民に、指導者たちに神のことばが伝えられることです。
私たちもそのような背景のなかで完成した聖書。書物としての神の御言葉を聞く者として
またそれを伝えていく者でありたい。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」
(Ⅱテモテ4・2)

3.信仰は神の言葉を聞くところから(ローマ10・17)
信仰は神の言葉を聞くところからうまれてくるのです。聖書を通して
信仰が養われていくのです。

2020年1月5日(日)「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」イザヤ書40章31節

新年礼拝は毎年教団の標語と聖句から説教しています。
「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」は昨年と同じ標語です。聖句は違っています。
標語をみるとなかなかその働きが進まないのも現実です。しかし、嘆くだけではなく
2019年度の教会標語のように「希望をもって生きる」ことが大切です。
私たちキリスト者は、

1.若者さえも疲れること(30節)
疲れるのは高齢者だけでなく、若者も疲れるのです。若い人ほどストレスに弱いという
統計があるそうです。神に選ばれているキリスト者も主を待ちのぞむことをしないと
いつも疲れるのです。

2.主を待ちのぞむ者への約束(31節、マタイの福音書28章19,20節)
「待ち望む」とは物をつかもうとして体を張る動作のことです。そこから
「熱心に期待する」「待ち続ける」という意味があります。
人間に期待すると失望します。イザヤは若い時から主から「人間に頼るな」という
メッセージを聞いていました。
「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(2・22)
そして主を待ち望むことを勧めています。そのとき主から力を得るのです。
その力は生きる力であり、希望をもって生きる力なのです。
また主を待ち望む者には聖霊が注がれるのです。
シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。
そのとき聖霊が宿ったとあります。(ルカ2・25)
聖霊が宿っていたとき主の恵みがあり、翼をはって上ることができる力を得、
そのような者はキリストの教えを守り、キリストを証する者とされるのです。
そこから次世代への宣教や信仰継承が進んでいくのです。

2020年1月1日(日)「新会堂を目指して(教会の一致)」エペソ4章3節

上記の表題で2020年の元旦礼拝がもたれました。

2019年12月29日(日)「恵み深い主に感謝」詩篇136篇1~26節

今年最後の礼拝です。詩篇を通してみことばを深く味わいましょう。136篇は詩篇の
なかでも大ハレルと呼ばれ、はじめに「主に感謝せよ」(1)があり、「その恵みは
とこしえまで」のその繰り返しで最後まであります。神の恵みに生かされて生きるなら、
一年の終わりも感謝と賛美が溢れてくるのです。

1.恵み深い主に感謝せよ(1~3節)
「主に感謝せよ」(1)とありますが、主は慈しみ深く、一方的な愛なるお方です。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43・4)
一年の終わりに自己反省ばかりするのではなく、一方的な神の愛のまなざしが注がれていた
ことを覚えることも必要です。そうすれば感謝と賛美があふれます。

2.驚くべき主の御わざに感謝せよ(4~23節)
この詩篇にはイスラエルの歴史的事件が記されています。出エジプトの恵みです。
それは私たちには主は救い主ということです。罪から救われて神の国に入るものとされて
いることです。かつてイスラエルの民はエジプトの地で奴隷とされていました。しかし
そこから救われたのです。私たちも罪人でしたが神の御子が世に来て、十字架にかかる
ことで私たちの罪の身代わりとなり、私たちの罪が赦され、義とされています。
自らの功績で救いを受けたのではなく、主の恵みであることを覚えましょう。

3.生かされている主に感謝せよ(25節)
私たちはみな主に生かされている存在です。必要な糧を頂き、自然界の恵みや主による
信仰により生かされているのです。「主はすべての肉なる者に食物を与えられる」(25)。

2019年12月22日(日)「大いなる喜びのおとずれ」ルカ2章8~14節

メリークリスマス!クリスマスは主イエス・キリストの降誕をお祝いする日です。
そしてそのイエス・キリストの降誕という大いなる喜びのおとずれは羊飼いたちへ、
そして今、私たちにも伝えられています。大いなる喜びのおとずれは、

1.羊飼いたちへ(8~10節)
最初にイエス・キリストの降誕の大いなる喜びのおとずれを聞いたのは野原で野宿を
していた羊飼いたちでした。羊飼いというと善良で柔和で気の優しい人たちを
想像しますが、当時は社会の底辺にあって、貧しく気が荒い人たちでした。
しかし、神はこのような羊飼いたちに救い主の誕生をお祝いしてほしかったのです。
ですから主の使いを通して大いなる喜びのおとずれが羊飼いたちへ告げられたのです。

2.この民全体のために(10節)
この民全体のためは羊飼いたちだけでなく、民全体のために伝えられたのです。
ベツレヘムはかつてダビデ王の故郷で救い主はダビデの子孫から生まれると
預言されていました。
そしてダビデの町、ベツレヘムで救い主が誕生されようとしていました。

3.あなたがたのために(11節、ヨハネ3・15~17節)
イエス・キリストは誰のためでもないあなたのために、神であるお方が人となられて
お生まれくださったのです。そして救い主とはメシヤであり「罪から救う」という
意味です。人はみな罪人で罪のない人はひとりもいません。そしてその罪は、
自分の力では清くできず難行苦行をしても清くできない。
それゆえに人は罪のない救い主なるイエス・キリストが必要でした。
そのお方を信じるとき罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちを得ることが
できるのです。

2019年12月15日(日)「神が目を留めてくださる」ルカ1章39~56節

ルカの福音書1章はマリヤの賛歌がある箇所です。
46節から55節の賛歌は賛美歌でも歌われて有名です。
そして現代にもこの歌はアドベントのときに開かれ、マリヤの信仰深さを学びます。
マリヤは言います。
「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」(48)と。
神は愛する者に目を留めてくださるお方です。そこには、

1.神の選び(48節)
「目を留める」とは、そこに選びがあります。神は救い主の母にマリヤを選んで
おられました。子どもが与えられる前から選びがありました。
ダビデの子孫のヨセフのいいなずけとしてのマリヤです(27)。
当時のいいなずけは必ず結婚しなければいけなかったのです。
イエス・キリストは言います。「わたしがあなたがたを選び」と。
(ヨハネ15・16)

2.神の愛(48節)
救い主がこの世に来られることは神が世を愛されたからです。(ヨハネ3・16)
そして選びと愛は私たちすべての人にあてはまります。そこに気がつくがどうかです。
マリヤのように「主は…、目を留めてくださったから」と宣言できますように。

3.神の期待(48節)
神は期待していました。マリヤが清く生きることを。
誘惑の多い社会でマリヤは「ひとりの処女」(26)でもありました。
神を信じ受け入れた者は清く生きることです。
神は汚れた者の内に住まわれないお方。
そのため、礼拝を重んじ、み言葉を日々味わうことです。

2019年12月8日(日)「切り株から新芽」イザヤ書11章1~9節

先週同様、イザヤ書よりみ言葉を学びます。エサイとはダビデの父エッサイのことで、
1節はダビデの子孫に救い主が生まれる預言です。

1.預言の成就(1節)
マタイの福音書1章をみるとダビデの子孫にヨセフがいてヨセフとマリヤの子が
イエス・キリスト。最初の王はサウルで二番目の王がダビデ。
そのダビデの子孫に救い主が生まれる預言が成就した。それゆえマタイの福音書1章に
系図があるのには意味があります。
そして救い主はイエス・キリストであることを証明しています。

2.切り株から新芽(1節)
新改訳聖書では「根株」口語訳聖書では「株」とあり、前の10章33節では
「たけの高いものは切り落とされ」とあり、神の裁きによりダビデの子孫にも
裁きがあることを示しています。
しかし、そんな中新芽が出て、若枝となり実を結ぶと。
ダビデ王とは違う、新しい王が誕生することが預言されています。
当時、イスラエルの民はダビデ王のような理想的な王を待ち望んでいましたが
大木から切り倒された何もない切り株をイザヤは見ています。
しかし、そこから新芽が生えることも見ています。そこに主の霊がとどまっていると。
イエス・キリストは大工の子として貧しい家庭に生まれましたが、知識と悟りの霊に
満たされた方。それゆえ主を信じる者に知識と悟りの霊を与えます。

3.檻のない動物園へ(6節)
イエス・キリストが来られたら、狼と子羊がともにいる世界、檻のない動物園を
もたらします。本当の平和を主は与えることができるのです。
エデンの園の世界を再臨のイエス・キリストで回復されるのです。

2019年3月17日(日)「帰るべきところに帰る」エレミヤ書4章1~8節

4章には預言エレミヤを通して神の招きが示されています。
まことの神はイスラエルの民を愛し、見捨てることをせず、救いを与えるお方です。
そして大胆に「もし帰るのなら―主の御告げ―わたしのところに帰ってこい。」と
強く勧めています。
キリスト者はいつも神の救いの恵みを覚えつつ、困難や試練のなかにあっても
帰るべきところに帰るべきなのです。
挨拶が「おかえりなさい」という教会があるそうですが、帰るべきところは教会で、
キリスト者にはあるのです。

1.二心ではいけない(1節)
聖書の神はねたむ神であるため唯一の神のみ愛することを
イスラエルの民に求めています。ですから偶像礼拝から離れる必要があり、
偶像なる装飾品もかざるべきでないのです。
忌むべきものを取り除く聖別を神は命じています。

2.心からの悔い改め(4節)
「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と神は言います。
私たちにとっては迷わず、洗礼を受けてない者は受けること、
洗礼を受けていても罪を犯したならば悔い改めが必要です。
それも、かたちだけではいけなく、心からの悔い改めを神は求めています。
また神の救いを受けない者や、罪を犯しても悔い改めせず罪を犯し続ける
キリスト者の最後は滅びであることを、神はエレミヤを通して示しています。
神は昔も今も「砕かれし魂、砕かれた、悔いた心」(詩51・17)を求めているのです。
あなたは今どのような状態でしょうか。

2019年3月10日(日)「絶望のなかで」エレミヤ書3章24~25節

3章はエレミヤがヨシヤ王の時代(紀元前640年から609年)に預言したもので
その内容はイスラエルの民が苦難のなかにいて
すべてを失う絶望のなかで生きることの内容でした。
神は神を愛する者をもときには苦難を経験させることを教えているかのようです。

1.偶像礼拝の結果(24、25節)
バアル信仰をイスラエルの民はもっていました。
バアルは豊かな収穫の神とされていましたが、そうではなく
祝福を奪うものであることを24節は意味しています。
そしてその結果その偶像礼拝ゆえにイスラエルの民は
(1)神の祝福を失い、大切なものを失うことになる。
聖書の神はねたむ神であることをキリスト者は忘れてはいけない。
神の戒めのように「主を愛し、心を尽くし精神を尽くして仕える」(申11・13)を
いつも覚えたい。

そして偶像礼拝の結果
(2)恥を受ける。
25節には「恥の中に伏し」とあります。日本人は江戸時代、武士が恥をかく位なら
切腹するということがありました。恥をかくことを嫌う国民です。
イスラエルの民も同じです。それゆえ「恥の中に伏し」とは大いなる屈辱です。

2.絶望のなかで(25節、マタイの福音書27章46節)
イスラエルの民は罪の結果、絶望のなかに歩むことになります。
そして絶望したものは絶望を経験したものしか救うことができないのです。
私たちのイエス・キリストは十字架にかかられたお方です。
そこで父なる神に見捨てられ、闇を経験したお方。
それゆえ絶望した者を救うことができるのです。今、希望をもてず、混沌としているなら
十字架のイエス・キリストを仰ぎ見ましょう。そのお方はすべての人の救い主です。

2019年3月3日(日)「慰めの招き」エレミヤ書3章1~25節

エレミヤが預言者として召命を受けた当時は、アッシリヤに北イスラエルを
滅ぼされた後で南ユダの民も自分の罪をも認めず、偶像礼拝の罪を犯し、
頑なな態度をとっていました。そんな中、エレミヤは神の民に預言をするのです。
その内容とは、

1.罪の現実を知ること(1~13節)
偶像礼拝の罪が男女間の姦淫の罪のように重く、南ユダの民はあいかわらず
「その淫行を行った。」とあります。(6)
十戒に「姦淫をしてはならない」(出エ20・14)とあります。
また「あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。
・・それらを拝んではならない。」(出エ20・4,5)とありながら
それを頑なに守らない民の姿がそこにあります。
現代のキリスト者にとっても偶像礼拝は罪であり、それをやめることなく
続けるときは神の裁きを受けるのです。
イスラエルでは姦淫の罪を犯した者は石打ちの刑に処されるのであります。

2.神が「立ち返れ」と言われたこと(11、14、22節)
「背信の女イスラエル。帰れ。」とエレミヤは伝えます。
女性だけではありません。男性も偶像礼拝をする者、罪を犯した者に神は
「立ち返れ」と招いています。

3.驚くべき神の慰めの招き(22節)
「背信をいやそう」と。そこに神の性質である「愛とあわれみ深さ」が示されています。
神は怒り続けるのではなく、罪をいやすこともできるお方です。
私たちにはさらに主なるイエス・キリストの十字架があります。
十字架にはいやしがあります。そしてそこにイスラエルの民同様に
神の愛とあわれみ深さがあるのです。
その愛とあわれみで今日も神はあなたを招いておられます。

2019年2月24日(日)「はじめの愛に帰ろう」エレミヤ書2章1~13節

エレミヤが預言者として召命を受けたときは紀元前626年ころで
ヨシヤ王の治世のときです。当時アッシリヤは北イスラエルを滅ぼし(紀元前722年)、
南ユダも支配下においていました。しかしアッシリヤの国力衰退とともに南ユダでは、
ヨシヤ王が登場し、北イスラエルの領土回復と南北統一を目指していました。
しかし、イスラエルの民は相変わらず異教の神々を拝み、
また国力は衰退していったのです。そこでエレミヤは、イスラエルの民の背信を問うているのです。

1.はじめの愛に帰ろう(2節)
はじめの愛とはイスラエルの民がどのようなところから救われたのか、
過去の歴史のこと。イスラエルの民はエジプトの奴隷から解放され、
約束の地を目指し、荒野の旅をしていました。
そのときの民の神への愛、従順さを思い出しないと伝えます。
なぜなら今はイスラエルの民が神に選ばれた選民であり神の花嫁であったはずなのに
夫を裏切り、他の男になびくように他の神々を拝むようになっているからです。
エレミヤ書はホセア書のようにイスラエルの民と神との関係を父と子ではなく、
ここでは夫婦の関係であらわしています。

2.偶像の神を頼ることはむなしい(13節)
イスラエルの民は生ける水の源を捨て、偶像の神、役にも立たない水だめを
求めたのです。その結果アッシリヤは強くなり南ユダを支配し、
後にはエジプトの植民地ともなるのです。ヨシヤ王はメギドの戦いでエジプト軍に
殺されるのです。(紀元前609年)
まことの神でなく、偶像の神々に頼ることはむなしいこと、勝利はないことを
現代の私たちに伝えています。

2019年2月17日(日)「預言者としての使命」エレミヤ書1章10~19節

エレミヤに与えられた預言者としての使命は、人を恐れず神の言葉を伝えることと
ビジョン(幻)をみることです。
私たちキリスト者にも同じ使命が神から与えられています。直接献身者だけのものでもありません。エレミヤは

1.神の言葉を伝えること
彼がとりつぐ神の言葉は「引き抜き、・・引き倒し、・・滅ぼし、あるいは建て、
また植えさせる」です。この言葉はエレミヤ書全体の主要なテーマであります。
この「引き抜き、倒し、滅ぼし」はエルサレムの崩壊とバビロン捕囚で
「建て、植えさせる」は捕囚からの帰還と共同体の回復を意味しています。
それをエレミヤは長き間語り続けるのです。
エレミヤに神の言葉があったことは神のみわざの一つです。
「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」と
ヨエル書2章18節にあるように神はイスラエルの民を愛しておられます。
神を愛することとは神が愛する民を愛することでもあります。
神の言葉を伝える預言者としての使命を果たすことこそ現代のキリスト者に
求められていることです。

2.ビジョン(幻)をみること
「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2・28)
若い男は幻を見るとあります。若きエレミヤも幻を見ます。
アーモンドの枝と煮えているかまです。アーモンドの枝の原語の意味は
「見張っている」です。現代のキリスト者は地の塩として民が罪を犯し
堕落しないように見張る使命があるのです。
煮え立っているかまは北のほうから傾き北の国より攻められることの預言です。

2019年2月10日(日)「若く未熟なエレミヤの祈り」エレミヤ書1章1~10節

本日からエレミヤ書に入ります。今から2500年以上も前のエレミヤと
神との出会いが1章に記されています。神の召しに困惑し激しく抵抗している
エレミヤ。神の言葉が迫り、捉えられたエレミヤ。そのエレミヤが後、
逆境の中でも神の言葉を語り続ける姿がエレミヤ書にあります。
エレミヤはアナトテの地で祭司の子どもとして育ち、ダビデの時代に活躍した
祭司エブヤタルの子孫とも言われています。

1.神に選ばれたエレミヤ(4、5節)
エレミヤに神の言葉が迫り、与えられます。「主のことばが私にあった。」
と(1節)、また、そこに神の選びがあり、また神は「あなたを国々への預言者と
定めていた」(5節)と。強引のようですが神は選び、任命するお方です。
わたしたちもイエス・キリストより選ばれた存在で弟子として任命しているのです。
(ヨハネ15章16節)
弟子には神の言葉を伝える使命があります。「みことばを宣べ伝えなさい。
時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4章2節)

2.若く未熟なエレミヤの祈り(6節)
エレミヤは神の招きに拒否をします。若く、未熟であるからという理由で。
当時25歳ぐらいと言われていますが父の祭司の仕事をみて大変さを感じたり、
当時のイスラエルの民の堕落している様子をみても不安になったのでしょう。
エレミヤに同情すべきところはありますが神と向き合って祈りの応答をしたエレミヤに
私たちは学ぶべきです。神のみ前に隠すことなく自分の気持ちを神にぶつけることは大切。誰しも神の働きのことを思うとき未熟さを感じますが、エレミヤはそれを受け入れました。今日も神は現代のエレミヤを求めています。

2019年2月3日(日)「最終ゴール」創世記49章29~33節 創世記50章24~26節

今日の聖書箇所はヤコブとヨセフの最後のときです。
人はいつか地上の生涯を終えることは定まっています。しかし死が終わりではなく、
信仰者にはいくべき場所が神により用意されています。
ヤコブもヨセフも信仰により後の者に自分の埋葬のことを伝えています。
そしてその場所はエジプトではなくカナンの地でした。

1.ヤコブの場合(創世記49章29~33節)
ヤコブは繰り返しエフロンの畑の地に自分を葬ることを伝えています。
そこはアブラハムとサラ、イサクとリベカそして自分の妻レアがすでに葬られている
地です。そこに葬ることを子たちに言います。異教の地ではなく神が約束した地である
カナンにこだわったのです。ヤコブの子は遺言を守り、そこに葬ります。(50・13)
わたしたちのカナンの地は主イエス・キリストが用意してくださった場所です。
(ヨハネ14・2)

2.ヨセフの場合(創世記50章24~26節)
ヨセフも同様自分を葬る場所にこだわります。エジプトの地は自分の好む地ではなく、
兄に憎まれ売られ、奴隷としてきた場所です。しかし、そのエジプトで成功し、
一生を終えます。しかし、最後に父ヤコブと同じ場所に葬られることにこだわり
「私の遺体をここから携え上ってくださいと言った。」と。(25節)
私たちは天国の民ではありますが、その地においてしっかりと生きることも大切です。
そして人生の最終ゴールのとき信仰をしっかりもち、天国の民であることを再度確認
することが必要です。ヨセフは信仰により信仰列伝のへブル11章に名が残るのです。
(へブル11・22)

2019年1月27日(日)「ヤコブの祝福」創世記49章1~33節

本章は創世記のなか重要な箇所で12章のアブラハムの約束からはじまり
ヤコブを通して語られた神の約束と祝福で(50章はあります)創世記は完結し、
イスラエル民族の出発につながります。
そしてそこにイエス・キリストの預言があります。
ヤコブは子どもたちへの祝福とともに未来のことを預言したのです。

1.行為による祝福
3節のルベンは長男でしたが父親のそばめと肉体関係をもち(35章22節)
長子の権を失います。まだ律法ができていない時でしたが、
父の権威を失墜させたことでその報いを受けます。次男シメオンと三男レビも
残虐な行為で一つの町を全滅させ、ヤコブの立場を困難にさせました。(34章30節)
それゆえ四男のユダが長子の権をもつことになります。
ユダとヨセフはヤコブの家族を救う役目を果たして多くの祝福を受けます。
そして「王権はユダを離れず」(10節)そのことでユダ族にダビデ、ソロモンが
後に王となり、まことの王であり救い主であるイエス・キリストにつながるのです。

2.信仰による祝福
レビは散らされることになりますが、出エジプトのとき率先して神に従ったことで
レビ族は聖別され祭司の役目を受けます。呪いはそこで失われています。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはありません。」(へブル11章6章)
そのことは今も同じです。私たちも過去に多くの罪を犯していても悔い改めるなら
イエス・キリストの十字架の血潮で赦され、神の尊い働きに用いられる者と
されるのです。信仰によりアブラハム、イサク、ヤコブは祝福を受けたのです。
ヨセフも信仰により特別な祝福が与えられたのです。(へブル11章22節)

2019年1月20日(日)「祝福された弟」創世記48章1~20節

ヤコブは高齢となり病人となります。地上の最後の時を迎えてヤコブは力をふりしぼり、
ヨセフの子のエフライムとマナセを養子とし、ヤコブの子としたのです。
そして神の祝福を祈りました。長子であるマナセを右の手に置くべきなのに
弟のマナセを右の手に置きヤコブは祝福するのです。
そのことは

1.神の祝福は人知を超えて
ヤコブも次男であるのに神は長男のエサウよりヤコブを選び祝福し、イスラエルの名を
与えました。兄エサウはエドム人の先祖となりました。
「一つの国民が地の国民より強く兄が弟に仕える。」(25章23節)
この言葉は主がヤコブの母リベカに伝えたものです。「兄が弟に仕える」ことは
あり得ないことですが、それが神の約束でした。
そのことがヤコブの生涯のなかに現実になされていったのです。
ヤコブの生涯は困難な生涯でしたが神の憐れみがいつもヤコブの上にありました。
ヤコブには人間の考えや思いを超えて神の選びがあったのです。パウロは言います。
「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」
(Ⅰコリント1章28節)

2.神の祝福は成就します。
この後、ヨセフの子エフライム、マナセはエフライム族、マナセ族となり、
カナンの地で多くの土地を得ます。神の祝福がその一族の上にあったのです。
そしてエフライム族からヨシュアが生まれ、ユダ族の近くの土地に住みます。
後の祭司のサムエルもエフライム族です。神の祝福は成就するのです。
私たちも神の祝福の民です。そのことを信じ、神の子どもとしての自覚をもって
日々過ごしましょう。

2019年1月6日(日)「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」
出エジプト33章14節、マルコ10章14節

新年礼拝は2019年度教団標語と聖句からの説教です。
標語は「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」このことは教団の危機、教会の危機を
示しています。教会が高齢化し将来へ不安を感じているからです。
また教会の使命が宣教であることを忘れてはいないか問われています。
教団委員長の水野晶子師の1月号の月報では
「2019年を迎えました。現代ほど、先がみえない、ビジョンがたてられない時代は
ないといわれています。何が起こるかわからない不安や恐れを抱えています」と。
しかしモーセはそのような時代神に祈り、重荷を負い、前へ進みました。
その秘訣は

1.神が共にいる臨在信仰(出エジプト記33章14節)

「わたし自身がいっしょに」と神がともにいると。私たちの神はインマヌエルの神で、
永遠の神です。その言葉には私たちの重荷を知り、負うことを意味します。

2.神が安息を与える信仰(出エジプト記33章14節)
若い人も老人も大きなストレスやプレシャーを抱えています。
若い人は特にそのようなもので押しつぶされ病気になる人も多いのです。
若いときに神を知ることが一番大切なことです。(伝道者12・1)
親も教育、スポーツも大切ですが、神を知ることが大切。

3.神の言葉で生きる信仰(マルコ10章14節)

教会では神の言葉が語られ、聖霊の働きがあります。
子どもや孫たちを愛するならばイエス・キリストのもとへ連れて行かなくては
いけません。迫害を受けてもです。それ以外に霊的な成長はないからです。
人間の人格的教育は聖書の言葉からなされていくものです。(マタイ4・4)

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