過去の礼拝メッセージ

2021年4月25日(日)「神にはできる」マルコ10章23~27節

イエス・キリストは金持ちの青年が顔を曇らせ、立ち去った姿を見つめ、心を痛めます。そして弟子たちに大切なことを教えます。「富を持つ者が神の国に入るのは、
なんと難しいことでしょう。」と。そのとき弟子たちは驚きます。
なぜなら富を持つことは神の祝福であると認識していたからです。富を持つ者は
富を何よりも大切なものとして生きた人で、救いを受けることは難しいという意味だと
思うのです。そのとき、弟子たちは言います。「それでは、だれが救われることが
できるでしょう。」とイエス・キリストに問うのです。その返答をとおして、

1.永遠のいのちは神が与えるものです。(ヨハネの福音書3章16節)
金持ちの青年が「永遠のいのち」をイエス・キリストに求めましたが、
イエス・キリストを教師としてみていました。イエス・キリストは神のひとり子であり、
救い主です。ヨハネの福音書3章ではイエス・キリストは言われます。
「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と。

2.全能の神です。(27節)
人間にはできないことだらけですが、神にはできないことがないのです。
神の救いに一番遠い人でも救うことができるお方です。
また私たちがイエス・キリストを信じることができたとしたら、聖霊の働きがあったの
です。それは神の力です。人間の力で救いや永遠のいのちを得ることができないのです。人間の側には救いの条件はないのです。人間の条件を問題にする限り、救われる人は
いないのです。神の救いは徹頭徹尾、神の賜物です。従って獲得するものでなく、
神の恵みとして受け取るものです。

2021年4月18日(日)「永遠のいのちを受け継ぐために」マルコ10章17~27節

この聖書箇所はマタイ、ルカの福音書にも記されていますので重要な意味をもっている
場所。ここに登場する一人の人は、マタイでは「青年」(マタイ19・20.22)、
ルカでは「ある指導者」(ルカ18・18)とあります。その人はまじめで、
裕福でから高く評価されていた青年に思えます。その人がイエス・キリストに
ひざまずき、教えを請うのです。この人は、

1.イエス・キリストのまなざしを受けた人
イエス・キリストは自分に近づく者を拒まれません
予約していないと会わないそのようなお方ではない。イエス・キリストのまなざしは
いつも愛に満ちており
この人とも真剣に向かわれたのです。そこに確かに愛のまなざしがあったのです。

2.人生に満足していない人
この人は裕福であり、み言葉を守り、人から評価されていたことでしょう。しかし、
自分の人生に満足していなかったのです。心の渇き、魂の渇きがあったのです。

3.財産が神に従うことをさまたげていた人
永遠のいのちとは神との深い関係のなかで与えられるもので、それを得るなら
神の平安があるのです。私たちに神に信頼できない、それをじゃまするものがあれば
それを取り除かなければなりません。この人に
とっては財産でした。厳しい言葉をイエス・キリストは言われましたが、すべての人に言っているのではなく、この人に語られたのです。主イエス・キリストは自分の財産を
ささげてイエス・キリストに従うことを求められたのです。

2021年4月11日(日)「子どもへの祝福」マルコ10章13~16節

今日もマルコの福音書より学びます。この箇所はこども祝福式の日によく語られる
箇所であり、CS教師任命式でも読まれる箇所です。ここでのイエス・キリストの
言葉や態度を通して、

1.子どもを招くイエス・キリスト(14節)
旧約聖書では民数記でも総数に女性や子どもの数を入れていないことから、
子どもを軽んじているようにもみえるのですが、イエス・キリストは子どもを愛し、
一人の人間として尊ばれました。子どもを軽んじるイエス・キリストの弟子たちを
怒ったように。この「憤って」(14)という言葉はここでのみ使われている言葉で、
非常に憤るという意味です。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」と
子どもたちを招くイエス・キリストがそこにいます。

2.子どもたちを祝福するイエス・キリスト(16節)
イエス・キリストは子どもたちを抱き、祝福したのです。私たちの神は祝福を与える
お方です。イエス・キリストの招きに応えている子どもたちのように、へりくだって
いつもイエス・キリストの招きに応答するものでありますように。

3.小さき者を愛するイエス・キリスト(9章42節)
子どもたちだけでなく、体の弱さを覚えている者、心貧しい者など小さい者を
イエス・キリストは愛します。

(まとめ)神の国は「子どものように」(15)神の国を受け入れる者でなければ
いけない。ですからこの子どものように「受け入れる」ことが大切です。
子どものように素直で、謙虚で、受容性のあることがキリスト者にとって最も
重要なことです。

2021年4月4日(日)「キリストの復活の希望」マタイ28章1~10節

イースターおめでとうございます。今年のイースター礼拝はコロナ禍ですので
3回に分けています。十字架のそばにはイエス・キリストを慕う女性たちがいました。
そして、死んで葬られた場所にもイエス・キリストを慕う女性たちがいました。
マグダラのマリアと別のマリアです。そこに主の使いが現れ、「あなたがたは、恐れる
ことはありません。・・」と語られたのです。その言葉を通して、

1.恐れをもつことがないように。(5節)
私たちはさまざまな恐れをもちます。災害への恐れ病いの恐れ、死の恐れです。
特に愛する者の死は大きく精神的ダメージを受けます。イエス・キリストを慕うマリア
たちもイエス・キリストの死に大きなショックを受けたことでしょう。
そしてイエス・キリストが納められた場所に来たとき、主の使いを通して「恐れる
ことはありません。」と語られたのです。神のみこころは私たちが神からの平安を頂いて
恐れない人生を送ることです。

2.イエス・キリストはよみがえられたのです。(6節)
納められている場所にイエス・キリストがおられなかった。なぜか?!よみがえられた
からです。イエス・キリストの復活は死を打ち破って勝利の証。人は死んだら終わり
ではなく、イエス・キリストがよみがえられたことで私たちもよみがえりの命に
あずかることができるのです。そこに希望があります。

3.弟子たちに伝えなさい。(7節)
キリスト者にはみな使命があります。マリアたちにも使命がありました。
イエス・キリストがよみがえられたことを弟子たちに伝える使命です。

2021年3月28日(日)「十字架の救い」ルカ23章32~43節

今週は受難週で、時にイエス・キリストの十字架を日々覚えたい。
イエス・キリストが十字架についておられるとき、一緒に十字架につけられた
二人の犯罪人の一人に語られた救いの言葉を中心に、十字架の救いについて
深く理解したく願います。

1.へり下りをもつならば救いを得ます。
一人の犯罪人はイエス・キリストに向かってイエス・キリストの悪口を言います。
口語聖書では「悪口を言いつづけた。」とあります。その悪口は「あなたは
キリストではないか。自分と私たちを救え」です。しかし、もう一人の犯罪人は
悪口を言いつづけた犯罪人をたしなめます。その上でイエス・キリストに
お願いをします。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思い出してください。」(42)と。
これは心からヘリ下った救いを求める祈りです。イエス・キリストはその願いを
聞かれたのです。

2.イエス・キリストへの信仰により救いを得ます。
驚くべきことにこの犯罪人の祈りをイエス・キリストは聞かれ、「わたしとともに
パラダイスにいます。」(43)と言われます。パラダイスとは楽園であり、
イエス・キリストがおられる場所です。この犯罪人の過去は罪多き生涯でした。
そして、もう良き行い(善行)もできない身でもあります。しかし、イエス・キリストは
その一人の犯罪人を信仰により救いを与えたのです。神の救いは恵みであり、
信仰によるのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2・8)

2020年3月1日(日)「主イエスの試み」マルコ1章12~15節

イエス・キリストはバプテスマのヨハネから洗礼をヨルダン川で受けられた後、
荒野にいてサタンの誘惑を受けます。サタンからか、神からか。
野の獣と御使いが一緒にいるのは何故か、いろいろな疑問が湧いてきます。
その疑問に答えつつ、聖書に取り組んでいきましょう。

1.サタンなのか、神なのか(12~13節)
旧約のヨブ記をみると、ヨブは神の前に正しい人でありながら、神の赦しのなかで
サタンの攻撃を受けました。神は愛なるお方ではないかと疑問を覚えたものです。
サタンの試みを受けることも神でありながら人間として来られたイエス・キリスト
には必要なことだったのです。先週にも述べましたが、イエス・キリストは私たちの
模範なのです。ですから、私たちも洗礼(バプテスマ)を受けたとしても
荒野を通ることがあり、サタンの攻撃も受けるのです。
また人間は荒野において神と出会うとも言われます。神の救いを受けた後も、
サタンの誘惑や試練はあります。誘惑はサタンから、試練は神から来るのです。

2.野獣と天使たち(13節)
イエス・キリストは荒野で「野の獣とともにおられたが、御使いたちが」と。
荒野はイエス・キリストにおいてもやはり危険な場所ですが守るために天使たちを
遣わしたのです。私たちもイエス・キリストのように荒野に導かれますが
天使たちを遣わし、そこでも守られているのです。(詩91・11)

3.福音を宣べ伝えた。(14節、イザヤ書9章1節)
イエス・キリストはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えます。
旧約の預言を成就するためですし、そこに将来の使徒たちが存在していたのです。

2020年2月23日(日)「主イエスの洗礼」マルコ1章6~11節

イエス・キリストはバプテスマのヨハネから洗礼をヨルダン川で受けられたのです。
私たちも罪を認め、悔い改めるだけでなく、パフテスマを受けることが必要です。
主なるイエス・キリストが受けられたことで。

1.模範としてのイエス・キリスト(9~11節)
イエス・キリストは罪がないお方ですが、「すべての正しいことを実行するのは、
わたしたちにふさわしいのです。」と。(マタイ3・15)
バプテスマのヨハネから模範としてイエス・キリストは洗礼(パプテスマ)を
ヨルダン川で受けられたのです。そのとき、天から声がしました。
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と。

2.人となられたイエス・キリスト(9節、マタイ3章)
マルコの福音書では「ナザレから来られ」と書かれています。ナザレの田舎で育ち、
神であられたお方が人となられ、へりくだられたのです。人が味わう苦難や試練を
受けるために、神であられるお方が人となられたのです。
ヨハネはパプテスマを授けることを拒みましたが、イエスは受けられたのです。

3.弟子たちにパプテスマを授けることを命令された
主なるイエス・キリストは昇天前にそのことを弟子たちに勧めます。
大宣教命令です。(マタイ28・19)ですから、洗礼を受けることは必要不可欠で、
自分に死に、イエス・キリストにより新しく生きることを意味します。
また水からあがることで、新しくキリスト者として人生を生きることになるのです。
初代教会でも洗礼の儀式を大切にしていて(使徒2・40~42)
洗礼を受けた者はみな弟子として生きたのです。洗礼の意義を正しく知り、
その恵みに感謝して歩みましょう。

2020年2月16日(日)「荒野で叫ぶ者の声」マルコ1章2~4節

イエス・キリストの宣教活動の前、バプテスマのヨハネが登場します。
イザヤが預言した「荒野に呼ばわる者の声がする。」(イザヤ40・3)とは
バプテスマのヨハネを指します。イエス・キリストの道備えをするために
先駆者として登場し、預言の成就でもあります。そして、バプテスマのヨハネの
説教の内容とは、

1.罪の赦し(4節)
「罪の赦しのため」と言います。それにはまず自分が罪をもっていると
自覚する必要があります。しかし、多くの者は自分は罪の赦しが必要ではないと
思っています。罪とはギリシヤ語で「ハマルティア」と言い、「的を外す」
という意味です。私たちが創造された目的とは神を知り、神を礼拝し、
神の栄光をあらわすためです。しかし、そのことがわからず、間違った偶像の神々を
拝み、自己中心の生き方をする、それは的外れの生き方であり、罪の赦しが
必要なのです。

2.悔い改め(4節)
罪の赦しのためには罪を認めるとともに悔い改める必要があります。
悔い改めとは「方向を転換する」ことで、自己中心の生き方から神を信じ、
神を礼拝し、神の栄光をあらわす生き方へと変えることです。
私たちは薄々自分の心の中に荒野があることを感じてはいませんか。
孤独感やむなしさ・空虚感また妬み・憎しみがあり人間関係がうまくいかない
という荒野です。その根源が神のもとから離れているということがわからずに
いるのです。私たちは神により創造された者ですから、神と共に生きる者と
されているのです。今までの生き方を悔い改め罪の赦しのパプテスマを
受ける者となりましょう。今も神はあなたを招いています。

2020年2月9日(日)「福音のはじめ」マルコ1章1節

本日からエレミヤ書を終えて、新約聖書のマルコの福音書から説教します。
ヨハネの福音書以来の福音書からの講解説教となります。
マルコの福音書はペテロの弟子マルコが書き、どの福音書より一番古いと
されています。

1.福音のはじめ(1節)
聖書のはじめの創世記には世界のはじめが記されマルコの福音書の最初に福音の
はじめとあり、イエスの宣教活動が続いています。マタイとルカの福音書では
イエス・キリストの誕生から始まっています。聖書にはいつもはじめがあり、
終わりがあり永遠に不変な真理が聖書にはあります。そして、いかに福音が大切か、
マルコの福音書を通して福音を示され、私たちはその福音を聞き、
信じ、伝える者とされているのです。

2.福音(1節)
福音とは何の意味か、エウアンゲリオンというギリシャ語で、「喜びのおとずれ」
という意味です。使徒パウロは福音をイエス・キリストの宣教と
位置づけをしましたが、宣べ伝えるという出来事を表すとともにその内容をも
言い表す言葉でもあります。(通常、イエスの死と復活がその内容になっている)
私たちは今その福音に与かっています。そして、その福音は四つの福音書のこと
のみではなく、イエス・キリストの十字架の死と復活を伝える使命が
キリスト者にはあるのです。

3.神の子イエス・キリスト(1節)
イエス・キリストは神の子です。当時ローマ皇帝が神のように崇められていましたが、
その中でマルコは「神の子イエス・キリスト」と言いました。
私たちにも「イエスを誰と言うのか?」と、いつの時代にも問われています。

2020年2月2日(日)「エレミヤの最後の預言」エレミヤ書44章24節~30節

エレミヤは反対しましたがユダの民の残りの者たちと共にエジプトへ行きます。
バビロンからの報復を恐れての行動です。紀元前581年頃です。
しかし、バビロンへ捕囚とされたユダの民より信仰を守ることが堅固では
ありませんでした。(43章7節)そんななか、預言者エレミヤに主の言葉が
あったのです。そのことを通して、

1.主の熱心
万軍の主は熱心です。エジプトで信仰を守ることができなかった弱いユダの
残りの者たちに対して、主は見捨てず、預言者エレミヤに語ることを勧めます。
「エジプトの国にいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け」と。
主の熱心をそこにみます。

2.主の憐れみ
エジプトにともに行くエレミヤに対して怒ることも裁くこともせず、
預言者エレミヤに主の言葉がありました。そこに主の憐れみがあります。
しかし、ユダの民には神の裁きがあることを伝えています。
神を侮ってはいけません。罪人と共に歩むことはできません。
私たちもいつも十字架の血潮の赦しを求め、信じ赦された者としての信仰が
必要です。

3.主は希望を与えます
エジプトにいるユダの民には神の裁きがありますが、「剣をのがれる
少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る」(28節)と。
主なるお方はいつも希望のメッセージを与えます。
エレミヤはエジプトで最後を迎えますが、弟子であるエゼキエルが
バビロン捕囚とされます。
後に、預言者として神のことばがエゼキエルにあります。

2020年1月26日(日)「エレミヤの選択」エレミヤ書40章1節~8節

エレミヤはエルサレム進入の際に閉じ込められますが、釈放されます。
そしてバビロン行きをバビロンの侍従長ネブザルアダンより勧められます。
「私はあなたに目をかけよう」と。私たちは自由意志を神から与えられ
将来の行くべき方向を選ぶ必要があります。

1.エレミヤの選択Ⅰ
エレミヤはバビロンに行くことが今崩壊しているエルサレムに残るより
確かな生活が保証されていました。その背景にエレミヤの変わらない
預言者としての姿勢と働きが、バビロン王ネブカデレザルの耳にも
入っていて、それゆえネブカドネツァルはエルサレム陥落後、エレミヤを
優遇するように侍従長ネブザルアダンに特別な指示を与えていたのです。
しかし、エレミヤはその選択をしません。

2.エレミヤの選択Ⅱ
エレミヤは国に残された者と住むことを選びました。そこには生活の保障が
ありません。ユダの王ゼデキヤはバビロンへと連れていかれました。
(39章7節)エレミヤはしかし、残された者たちがいかに厳しい
状況のなかで生きていくかを思いつつ、共に住む道を選んだのです。
かつてモーセもイスラエルの民と共に歩む選択をしました。
エジプトのパロの娘の子として育てられたモーセでしたが、エジプトを捨て、
イスラエルの民と共に苦難の道を選択したのです。
(ヘブル11章24~26節)

エレミヤはエルサレム陥落後も後に残った者とともに預言者としての
奉仕を継続していきました。そして7節には、残された者たちは男、女、
子どもたち、彼らは「国の貧民たち」であったことが記されています。
イエス・キリストは言います。「狭い門から入りなさい」(マタイ7章13節)と。
私たちも楽な道を選ぶのではなく、苦難の道を選ぶこと、そこに神のみこころが
あります。

2020年1月19日(日)「降伏を勧めた預言者」エレミヤ書38章14節~28節

エレミヤは紀元前627年の召命から40年間奉仕をしました。
北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされてから100年以上経ち、
南王国ユダもバビロン帝国に滅ぼされ、エルサレムの神殿は焼かれ、
主だった人はバビロンに捕囚とされる、その激動の中にエレミヤはいました。
エレミヤの動向は、現代の危機的社会のなかにキリスト者が
どのように生きるべきかを示唆しています。
本章に登場するユダの王ゼデキヤは、バビロンによりユダの王に任命された王でしたが
(37章)、動揺してエジプトとも通じ、将来に進むべき道をもたず、困ったゆえに
エレミヤに助言を求めます。

1.降伏への勧め
エレミヤはここまで来たら、無駄な抵抗をしないで降伏することを勧めます。
それを言えばゼデキヤ王の不興を買うことはわかっていましたが、伝えたのです。
ゼデキヤ王はその助言に従わずエレミヤを水だめに入れるのですが、命はかろうじて
守られるのです。しかしその結果、南ユダ王国は滅亡したのです。(39章)

2.神の言葉を聞く大切さ
エレミヤは正確な洞察をして神のみ言葉を預かり、正確に伝えました。
指導者や民はその声を聞くことが大切です。そのようにしなかった王の決断で
多くの者が苦しみ、エルサレムの宮殿も焼かれることとなりました。
降伏することはつらいことですが、私たちも神のみ言葉を聞き、
それに従うことは今までの価値観、経験を捨てることにもなります。
神に信頼するということはそのようなことです。

心の王座にいつも自分がいるのではなく、そこにイエス・キリストを迎え、
生きることそのことが、神に降伏し、明け渡しをするということです。
神のみ言葉を聞き、自我の固まりを砕き、信頼する者となりましょう。

2020年1月12日(日)「書物としての神の言葉」エレミヤ書36章1節~20節

今年もエレミヤ書を通して主のみこころを学び、成長していきたいと思います。
本章はエレミヤが獄に入れられ、バビロンによりエルサレム攻撃が近いところまで
きている時代を背景にしています。

1.エレミヤの試練(1~5節)
今までもエレミヤは迫害を受けていましたが、主の熱心はそんななかでも
「わたしが語ったことばを巻き物に書き示せ」と言われました。
神はエレミヤに語ります。聖書はそのような危機的状況のなかで出来た書物であることを
思うのです。そして神の熱心が聖書をつくりあげていくのです。

2.書かれたみ言葉による神の啓示(6~20節)
ここより神のみ言葉の担い手が預言者から預言書へ、語る人物から語られる書物へ
移行していくのです。バルクによって書きとめられ、朗読され、神のみ言葉が民へ、
指導者へ伝えられていくのです。
エレミヤ、バルクは身を隠くしますが、神のみ言葉は伝えられていきます。
その模様は不思議な気持ちにさせ、生きた神の働きをみることができます。
エレミヤが獄にいるそのような中でも神は生きて働くのです。
神の熱心は民に、指導者たちに神のことばが伝えられることです。
私たちもそのような背景のなかで完成した聖書。書物としての神の御言葉を聞く者として
またそれを伝えていく者でありたい。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」
(Ⅱテモテ4・2)

3.信仰は神の言葉を聞くところから(ローマ10・17)
信仰は神の言葉を聞くところからうまれてくるのです。聖書を通して
信仰が養われていくのです。

2020年1月5日(日)「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」イザヤ書40章31節

新年礼拝は毎年教団の標語と聖句から説教しています。
「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」は昨年と同じ標語です。聖句は違っています。
標語をみるとなかなかその働きが進まないのも現実です。しかし、嘆くだけではなく
2019年度の教会標語のように「希望をもって生きる」ことが大切です。
私たちキリスト者は、

1.若者さえも疲れること(30節)
疲れるのは高齢者だけでなく、若者も疲れるのです。若い人ほどストレスに弱いという
統計があるそうです。神に選ばれているキリスト者も主を待ちのぞむことをしないと
いつも疲れるのです。

2.主を待ちのぞむ者への約束(31節、マタイの福音書28章19,20節)
「待ち望む」とは物をつかもうとして体を張る動作のことです。そこから
「熱心に期待する」「待ち続ける」という意味があります。
人間に期待すると失望します。イザヤは若い時から主から「人間に頼るな」という
メッセージを聞いていました。
「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(2・22)
そして主を待ち望むことを勧めています。そのとき主から力を得るのです。
その力は生きる力であり、希望をもって生きる力なのです。
また主を待ち望む者には聖霊が注がれるのです。
シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。
そのとき聖霊が宿ったとあります。(ルカ2・25)
聖霊が宿っていたとき主の恵みがあり、翼をはって上ることができる力を得、
そのような者はキリストの教えを守り、キリストを証する者とされるのです。
そこから次世代への宣教や信仰継承が進んでいくのです。

2020年1月1日(日)「新会堂を目指して(教会の一致)」エペソ4章3節

上記の表題で2020年の元旦礼拝がもたれました。

2019年12月29日(日)「恵み深い主に感謝」詩篇136篇1~26節

今年最後の礼拝です。詩篇を通してみことばを深く味わいましょう。136篇は詩篇の
なかでも大ハレルと呼ばれ、はじめに「主に感謝せよ」(1)があり、「その恵みは
とこしえまで」のその繰り返しで最後まであります。神の恵みに生かされて生きるなら、
一年の終わりも感謝と賛美が溢れてくるのです。

1.恵み深い主に感謝せよ(1~3節)
「主に感謝せよ」(1)とありますが、主は慈しみ深く、一方的な愛なるお方です。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43・4)
一年の終わりに自己反省ばかりするのではなく、一方的な神の愛のまなざしが注がれていた
ことを覚えることも必要です。そうすれば感謝と賛美があふれます。

2.驚くべき主の御わざに感謝せよ(4~23節)
この詩篇にはイスラエルの歴史的事件が記されています。出エジプトの恵みです。
それは私たちには主は救い主ということです。罪から救われて神の国に入るものとされて
いることです。かつてイスラエルの民はエジプトの地で奴隷とされていました。しかし
そこから救われたのです。私たちも罪人でしたが神の御子が世に来て、十字架にかかる
ことで私たちの罪の身代わりとなり、私たちの罪が赦され、義とされています。
自らの功績で救いを受けたのではなく、主の恵みであることを覚えましょう。

3.生かされている主に感謝せよ(25節)
私たちはみな主に生かされている存在です。必要な糧を頂き、自然界の恵みや主による
信仰により生かされているのです。「主はすべての肉なる者に食物を与えられる」(25)。

2019年12月22日(日)「大いなる喜びのおとずれ」ルカ2章8~14節

メリークリスマス!クリスマスは主イエス・キリストの降誕をお祝いする日です。
そしてそのイエス・キリストの降誕という大いなる喜びのおとずれは羊飼いたちへ、
そして今、私たちにも伝えられています。大いなる喜びのおとずれは、

1.羊飼いたちへ(8~10節)
最初にイエス・キリストの降誕の大いなる喜びのおとずれを聞いたのは野原で野宿を
していた羊飼いたちでした。羊飼いというと善良で柔和で気の優しい人たちを
想像しますが、当時は社会の底辺にあって、貧しく気が荒い人たちでした。
しかし、神はこのような羊飼いたちに救い主の誕生をお祝いしてほしかったのです。
ですから主の使いを通して大いなる喜びのおとずれが羊飼いたちへ告げられたのです。

2.この民全体のために(10節)
この民全体のためは羊飼いたちだけでなく、民全体のために伝えられたのです。
ベツレヘムはかつてダビデ王の故郷で救い主はダビデの子孫から生まれると
預言されていました。
そしてダビデの町、ベツレヘムで救い主が誕生されようとしていました。

3.あなたがたのために(11節、ヨハネ3・15~17節)
イエス・キリストは誰のためでもないあなたのために、神であるお方が人となられて
お生まれくださったのです。そして救い主とはメシヤであり「罪から救う」という
意味です。人はみな罪人で罪のない人はひとりもいません。そしてその罪は、
自分の力では清くできず難行苦行をしても清くできない。
それゆえに人は罪のない救い主なるイエス・キリストが必要でした。
そのお方を信じるとき罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちを得ることが
できるのです。

2019年12月15日(日)「神が目を留めてくださる」ルカ1章39~56節

ルカの福音書1章はマリヤの賛歌がある箇所です。
46節から55節の賛歌は賛美歌でも歌われて有名です。
そして現代にもこの歌はアドベントのときに開かれ、マリヤの信仰深さを学びます。
マリヤは言います。
「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」(48)と。
神は愛する者に目を留めてくださるお方です。そこには、

1.神の選び(48節)
「目を留める」とは、そこに選びがあります。神は救い主の母にマリヤを選んで
おられました。子どもが与えられる前から選びがありました。
ダビデの子孫のヨセフのいいなずけとしてのマリヤです(27)。
当時のいいなずけは必ず結婚しなければいけなかったのです。
イエス・キリストは言います。「わたしがあなたがたを選び」と。
(ヨハネ15・16)

2.神の愛(48節)
救い主がこの世に来られることは神が世を愛されたからです。(ヨハネ3・16)
そして選びと愛は私たちすべての人にあてはまります。そこに気がつくがどうかです。
マリヤのように「主は…、目を留めてくださったから」と宣言できますように。

3.神の期待(48節)
神は期待していました。マリヤが清く生きることを。
誘惑の多い社会でマリヤは「ひとりの処女」(26)でもありました。
神を信じ受け入れた者は清く生きることです。
神は汚れた者の内に住まわれないお方。
そのため、礼拝を重んじ、み言葉を日々味わうことです。

2019年12月8日(日)「切り株から新芽」イザヤ書11章1~9節

先週同様、イザヤ書よりみ言葉を学びます。エサイとはダビデの父エッサイのことで、
1節はダビデの子孫に救い主が生まれる預言です。

1.預言の成就(1節)
マタイの福音書1章をみるとダビデの子孫にヨセフがいてヨセフとマリヤの子が
イエス・キリスト。最初の王はサウルで二番目の王がダビデ。
そのダビデの子孫に救い主が生まれる預言が成就した。それゆえマタイの福音書1章に
系図があるのには意味があります。
そして救い主はイエス・キリストであることを証明しています。

2.切り株から新芽(1節)
新改訳聖書では「根株」口語訳聖書では「株」とあり、前の10章33節では
「たけの高いものは切り落とされ」とあり、神の裁きによりダビデの子孫にも
裁きがあることを示しています。
しかし、そんな中新芽が出て、若枝となり実を結ぶと。
ダビデ王とは違う、新しい王が誕生することが預言されています。
当時、イスラエルの民はダビデ王のような理想的な王を待ち望んでいましたが
大木から切り倒された何もない切り株をイザヤは見ています。
しかし、そこから新芽が生えることも見ています。そこに主の霊がとどまっていると。
イエス・キリストは大工の子として貧しい家庭に生まれましたが、知識と悟りの霊に
満たされた方。それゆえ主を信じる者に知識と悟りの霊を与えます。

3.檻のない動物園へ(6節)
イエス・キリストが来られたら、狼と子羊がともにいる世界、檻のない動物園を
もたらします。本当の平和を主は与えることができるのです。
エデンの園の世界を再臨のイエス・キリストで回復されるのです。

2019年3月17日(日)「帰るべきところに帰る」エレミヤ書4章1~8節

4章には預言エレミヤを通して神の招きが示されています。
まことの神はイスラエルの民を愛し、見捨てることをせず、救いを与えるお方です。
そして大胆に「もし帰るのなら―主の御告げ―わたしのところに帰ってこい。」と
強く勧めています。
キリスト者はいつも神の救いの恵みを覚えつつ、困難や試練のなかにあっても
帰るべきところに帰るべきなのです。
挨拶が「おかえりなさい」という教会があるそうですが、帰るべきところは教会で、
キリスト者にはあるのです。

1.二心ではいけない(1節)
聖書の神はねたむ神であるため唯一の神のみ愛することを
イスラエルの民に求めています。ですから偶像礼拝から離れる必要があり、
偶像なる装飾品もかざるべきでないのです。
忌むべきものを取り除く聖別を神は命じています。

2.心からの悔い改め(4節)
「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と神は言います。
私たちにとっては迷わず、洗礼を受けてない者は受けること、
洗礼を受けていても罪を犯したならば悔い改めが必要です。
それも、かたちだけではいけなく、心からの悔い改めを神は求めています。
また神の救いを受けない者や、罪を犯しても悔い改めせず罪を犯し続ける
キリスト者の最後は滅びであることを、神はエレミヤを通して示しています。
神は昔も今も「砕かれし魂、砕かれた、悔いた心」(詩51・17)を求めているのです。
あなたは今どのような状態でしょうか。

2019年3月10日(日)「絶望のなかで」エレミヤ書3章24~25節

3章はエレミヤがヨシヤ王の時代(紀元前640年から609年)に預言したもので
その内容はイスラエルの民が苦難のなかにいて
すべてを失う絶望のなかで生きることの内容でした。
神は神を愛する者をもときには苦難を経験させることを教えているかのようです。

1.偶像礼拝の結果(24、25節)
バアル信仰をイスラエルの民はもっていました。
バアルは豊かな収穫の神とされていましたが、そうではなく
祝福を奪うものであることを24節は意味しています。
そしてその結果その偶像礼拝ゆえにイスラエルの民は
(1)神の祝福を失い、大切なものを失うことになる。
聖書の神はねたむ神であることをキリスト者は忘れてはいけない。
神の戒めのように「主を愛し、心を尽くし精神を尽くして仕える」(申11・13)を
いつも覚えたい。

そして偶像礼拝の結果
(2)恥を受ける。
25節には「恥の中に伏し」とあります。日本人は江戸時代、武士が恥をかく位なら
切腹するということがありました。恥をかくことを嫌う国民です。
イスラエルの民も同じです。それゆえ「恥の中に伏し」とは大いなる屈辱です。

2.絶望のなかで(25節、マタイの福音書27章46節)
イスラエルの民は罪の結果、絶望のなかに歩むことになります。
そして絶望したものは絶望を経験したものしか救うことができないのです。
私たちのイエス・キリストは十字架にかかられたお方です。
そこで父なる神に見捨てられ、闇を経験したお方。
それゆえ絶望した者を救うことができるのです。今、希望をもてず、混沌としているなら
十字架のイエス・キリストを仰ぎ見ましょう。そのお方はすべての人の救い主です。

2019年3月3日(日)「慰めの招き」エレミヤ書3章1~25節

エレミヤが預言者として召命を受けた当時は、アッシリヤに北イスラエルを
滅ぼされた後で南ユダの民も自分の罪をも認めず、偶像礼拝の罪を犯し、
頑なな態度をとっていました。そんな中、エレミヤは神の民に預言をするのです。
その内容とは、

1.罪の現実を知ること(1~13節)
偶像礼拝の罪が男女間の姦淫の罪のように重く、南ユダの民はあいかわらず
「その淫行を行った。」とあります。(6)
十戒に「姦淫をしてはならない」(出エ20・14)とあります。
また「あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。
・・それらを拝んではならない。」(出エ20・4,5)とありながら
それを頑なに守らない民の姿がそこにあります。
現代のキリスト者にとっても偶像礼拝は罪であり、それをやめることなく
続けるときは神の裁きを受けるのです。
イスラエルでは姦淫の罪を犯した者は石打ちの刑に処されるのであります。

2.神が「立ち返れ」と言われたこと(11、14、22節)
「背信の女イスラエル。帰れ。」とエレミヤは伝えます。
女性だけではありません。男性も偶像礼拝をする者、罪を犯した者に神は
「立ち返れ」と招いています。

3.驚くべき神の慰めの招き(22節)
「背信をいやそう」と。そこに神の性質である「愛とあわれみ深さ」が示されています。
神は怒り続けるのではなく、罪をいやすこともできるお方です。
私たちにはさらに主なるイエス・キリストの十字架があります。
十字架にはいやしがあります。そしてそこにイスラエルの民同様に
神の愛とあわれみ深さがあるのです。
その愛とあわれみで今日も神はあなたを招いておられます。

2019年2月24日(日)「はじめの愛に帰ろう」エレミヤ書2章1~13節

エレミヤが預言者として召命を受けたときは紀元前626年ころで
ヨシヤ王の治世のときです。当時アッシリヤは北イスラエルを滅ぼし(紀元前722年)、
南ユダも支配下においていました。しかしアッシリヤの国力衰退とともに南ユダでは、
ヨシヤ王が登場し、北イスラエルの領土回復と南北統一を目指していました。
しかし、イスラエルの民は相変わらず異教の神々を拝み、
また国力は衰退していったのです。そこでエレミヤは、イスラエルの民の背信を問うているのです。

1.はじめの愛に帰ろう(2節)
はじめの愛とはイスラエルの民がどのようなところから救われたのか、
過去の歴史のこと。イスラエルの民はエジプトの奴隷から解放され、
約束の地を目指し、荒野の旅をしていました。
そのときの民の神への愛、従順さを思い出しないと伝えます。
なぜなら今はイスラエルの民が神に選ばれた選民であり神の花嫁であったはずなのに
夫を裏切り、他の男になびくように他の神々を拝むようになっているからです。
エレミヤ書はホセア書のようにイスラエルの民と神との関係を父と子ではなく、
ここでは夫婦の関係であらわしています。

2.偶像の神を頼ることはむなしい(13節)
イスラエルの民は生ける水の源を捨て、偶像の神、役にも立たない水だめを
求めたのです。その結果アッシリヤは強くなり南ユダを支配し、
後にはエジプトの植民地ともなるのです。ヨシヤ王はメギドの戦いでエジプト軍に
殺されるのです。(紀元前609年)
まことの神でなく、偶像の神々に頼ることはむなしいこと、勝利はないことを
現代の私たちに伝えています。

2019年2月17日(日)「預言者としての使命」エレミヤ書1章10~19節

エレミヤに与えられた預言者としての使命は、人を恐れず神の言葉を伝えることと
ビジョン(幻)をみることです。
私たちキリスト者にも同じ使命が神から与えられています。直接献身者だけのものでもありません。エレミヤは

1.神の言葉を伝えること
彼がとりつぐ神の言葉は「引き抜き、・・引き倒し、・・滅ぼし、あるいは建て、
また植えさせる」です。この言葉はエレミヤ書全体の主要なテーマであります。
この「引き抜き、倒し、滅ぼし」はエルサレムの崩壊とバビロン捕囚で
「建て、植えさせる」は捕囚からの帰還と共同体の回復を意味しています。
それをエレミヤは長き間語り続けるのです。
エレミヤに神の言葉があったことは神のみわざの一つです。
「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」と
ヨエル書2章18節にあるように神はイスラエルの民を愛しておられます。
神を愛することとは神が愛する民を愛することでもあります。
神の言葉を伝える預言者としての使命を果たすことこそ現代のキリスト者に
求められていることです。

2.ビジョン(幻)をみること
「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2・28)
若い男は幻を見るとあります。若きエレミヤも幻を見ます。
アーモンドの枝と煮えているかまです。アーモンドの枝の原語の意味は
「見張っている」です。現代のキリスト者は地の塩として民が罪を犯し
堕落しないように見張る使命があるのです。
煮え立っているかまは北のほうから傾き北の国より攻められることの預言です。

2019年2月10日(日)「若く未熟なエレミヤの祈り」エレミヤ書1章1~10節

本日からエレミヤ書に入ります。今から2500年以上も前のエレミヤと
神との出会いが1章に記されています。神の召しに困惑し激しく抵抗している
エレミヤ。神の言葉が迫り、捉えられたエレミヤ。そのエレミヤが後、
逆境の中でも神の言葉を語り続ける姿がエレミヤ書にあります。
エレミヤはアナトテの地で祭司の子どもとして育ち、ダビデの時代に活躍した
祭司エブヤタルの子孫とも言われています。

1.神に選ばれたエレミヤ(4、5節)
エレミヤに神の言葉が迫り、与えられます。「主のことばが私にあった。」
と(1節)、また、そこに神の選びがあり、また神は「あなたを国々への預言者と
定めていた」(5節)と。強引のようですが神は選び、任命するお方です。
わたしたちもイエス・キリストより選ばれた存在で弟子として任命しているのです。
(ヨハネ15章16節)
弟子には神の言葉を伝える使命があります。「みことばを宣べ伝えなさい。
時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4章2節)

2.若く未熟なエレミヤの祈り(6節)
エレミヤは神の招きに拒否をします。若く、未熟であるからという理由で。
当時25歳ぐらいと言われていますが父の祭司の仕事をみて大変さを感じたり、
当時のイスラエルの民の堕落している様子をみても不安になったのでしょう。
エレミヤに同情すべきところはありますが神と向き合って祈りの応答をしたエレミヤに
私たちは学ぶべきです。神のみ前に隠すことなく自分の気持ちを神にぶつけることは大切。誰しも神の働きのことを思うとき未熟さを感じますが、エレミヤはそれを受け入れました。今日も神は現代のエレミヤを求めています。

2019年2月3日(日)「最終ゴール」創世記49章29~33節 創世記50章24~26節

今日の聖書箇所はヤコブとヨセフの最後のときです。
人はいつか地上の生涯を終えることは定まっています。しかし死が終わりではなく、
信仰者にはいくべき場所が神により用意されています。
ヤコブもヨセフも信仰により後の者に自分の埋葬のことを伝えています。
そしてその場所はエジプトではなくカナンの地でした。

1.ヤコブの場合(創世記49章29~33節)
ヤコブは繰り返しエフロンの畑の地に自分を葬ることを伝えています。
そこはアブラハムとサラ、イサクとリベカそして自分の妻レアがすでに葬られている
地です。そこに葬ることを子たちに言います。異教の地ではなく神が約束した地である
カナンにこだわったのです。ヤコブの子は遺言を守り、そこに葬ります。(50・13)
わたしたちのカナンの地は主イエス・キリストが用意してくださった場所です。
(ヨハネ14・2)

2.ヨセフの場合(創世記50章24~26節)
ヨセフも同様自分を葬る場所にこだわります。エジプトの地は自分の好む地ではなく、
兄に憎まれ売られ、奴隷としてきた場所です。しかし、そのエジプトで成功し、
一生を終えます。しかし、最後に父ヤコブと同じ場所に葬られることにこだわり
「私の遺体をここから携え上ってくださいと言った。」と。(25節)
私たちは天国の民ではありますが、その地においてしっかりと生きることも大切です。
そして人生の最終ゴールのとき信仰をしっかりもち、天国の民であることを再度確認
することが必要です。ヨセフは信仰により信仰列伝のへブル11章に名が残るのです。
(へブル11・22)

2019年1月27日(日)「ヤコブの祝福」創世記49章1~33節

本章は創世記のなか重要な箇所で12章のアブラハムの約束からはじまり
ヤコブを通して語られた神の約束と祝福で(50章はあります)創世記は完結し、
イスラエル民族の出発につながります。
そしてそこにイエス・キリストの預言があります。
ヤコブは子どもたちへの祝福とともに未来のことを預言したのです。

1.行為による祝福
3節のルベンは長男でしたが父親のそばめと肉体関係をもち(35章22節)
長子の権を失います。まだ律法ができていない時でしたが、
父の権威を失墜させたことでその報いを受けます。次男シメオンと三男レビも
残虐な行為で一つの町を全滅させ、ヤコブの立場を困難にさせました。(34章30節)
それゆえ四男のユダが長子の権をもつことになります。
ユダとヨセフはヤコブの家族を救う役目を果たして多くの祝福を受けます。
そして「王権はユダを離れず」(10節)そのことでユダ族にダビデ、ソロモンが
後に王となり、まことの王であり救い主であるイエス・キリストにつながるのです。

2.信仰による祝福
レビは散らされることになりますが、出エジプトのとき率先して神に従ったことで
レビ族は聖別され祭司の役目を受けます。呪いはそこで失われています。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはありません。」(へブル11章6章)
そのことは今も同じです。私たちも過去に多くの罪を犯していても悔い改めるなら
イエス・キリストの十字架の血潮で赦され、神の尊い働きに用いられる者と
されるのです。信仰によりアブラハム、イサク、ヤコブは祝福を受けたのです。
ヨセフも信仰により特別な祝福が与えられたのです。(へブル11章22節)

2019年1月20日(日)「祝福された弟」創世記48章1~20節

ヤコブは高齢となり病人となります。地上の最後の時を迎えてヤコブは力をふりしぼり、
ヨセフの子のエフライムとマナセを養子とし、ヤコブの子としたのです。
そして神の祝福を祈りました。長子であるマナセを右の手に置くべきなのに
弟のマナセを右の手に置きヤコブは祝福するのです。
そのことは

1.神の祝福は人知を超えて
ヤコブも次男であるのに神は長男のエサウよりヤコブを選び祝福し、イスラエルの名を
与えました。兄エサウはエドム人の先祖となりました。
「一つの国民が地の国民より強く兄が弟に仕える。」(25章23節)
この言葉は主がヤコブの母リベカに伝えたものです。「兄が弟に仕える」ことは
あり得ないことですが、それが神の約束でした。
そのことがヤコブの生涯のなかに現実になされていったのです。
ヤコブの生涯は困難な生涯でしたが神の憐れみがいつもヤコブの上にありました。
ヤコブには人間の考えや思いを超えて神の選びがあったのです。パウロは言います。
「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」
(Ⅰコリント1章28節)

2.神の祝福は成就します。
この後、ヨセフの子エフライム、マナセはエフライム族、マナセ族となり、
カナンの地で多くの土地を得ます。神の祝福がその一族の上にあったのです。
そしてエフライム族からヨシュアが生まれ、ユダ族の近くの土地に住みます。
後の祭司のサムエルもエフライム族です。神の祝福は成就するのです。
私たちも神の祝福の民です。そのことを信じ、神の子どもとしての自覚をもって
日々過ごしましょう。

2019年1月6日(日)「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」
出エジプト33章14節、マルコ10章14節

新年礼拝は2019年度教団標語と聖句からの説教です。
標語は「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」このことは教団の危機、教会の危機を
示しています。教会が高齢化し将来へ不安を感じているからです。
また教会の使命が宣教であることを忘れてはいないか問われています。
教団委員長の水野晶子師の1月号の月報では
「2019年を迎えました。現代ほど、先がみえない、ビジョンがたてられない時代は
ないといわれています。何が起こるかわからない不安や恐れを抱えています」と。
しかしモーセはそのような時代神に祈り、重荷を負い、前へ進みました。
その秘訣は

1.神が共にいる臨在信仰(出エジプト記33章14節)

「わたし自身がいっしょに」と神がともにいると。私たちの神はインマヌエルの神で、
永遠の神です。その言葉には私たちの重荷を知り、負うことを意味します。

2.神が安息を与える信仰(出エジプト記33章14節)
若い人も老人も大きなストレスやプレシャーを抱えています。
若い人は特にそのようなもので押しつぶされ病気になる人も多いのです。
若いときに神を知ることが一番大切なことです。(伝道者12・1)
親も教育、スポーツも大切ですが、神を知ることが大切。

3.神の言葉で生きる信仰(マルコ10章14節)

教会では神の言葉が語られ、聖霊の働きがあります。
子どもや孫たちを愛するならばイエス・キリストのもとへ連れて行かなくては
いけません。迫害を受けてもです。それ以外に霊的な成長はないからです。
人間の人格的教育は聖書の言葉からなされていくものです。(マタイ4・4)

2018年12月30日(日)「幼子イエスをささげて」ルカ2章21~24節

今年最後の礼拝です。ルカ2章を通してイエスの父ヨセフと母マリヤの信仰を
ともに見ていきたいと思います。

1.「イエス」と名をつけた。(21節)
ヨセフは「イエスとつけなさい」と主の使いより言われその通りにしました。
(マタイ1章25節)
それゆえ、幼子は「イエスという名で呼ばれることになった」とあります。
神に従うヨセフがいます。イエス・キリストは後に言います。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることは
できません。」(マルコ10章15節)幼子のような素直な信仰が求められます。

2.律法を守りました。(22節)
両親はモーセの律法に従って、幼子を主にささげるために、エルサレムの宮へ
行きました。当時正しい人とは律法や儀式を守る人でした。
エジプトの奴隷であったイスラエルが、エジプトを脱出する最後の時に、
エジプト人の初子は神に殺されたが、イスラエルの初子は殺されないで
過ぎ越されました。
それを記念して、イスラエルのすべての初子を神にささげるという儀式を
していたのです。

3.犠牲をささげた。(24節)
ヨセフとマリヤは儀式のとき「山ばとと一つがい、または、家ばとのひな二羽」を
ささげました。(レビ12章)
この時、イエスは生かされましたが、当時ベツレヘムの2歳以下の男の子は殺されました。
私たちの救いにもイエス・キリストの十字架の犠牲があります。
我々の生は、そのように何らかの形で誰かの犠牲によって成り立っていて、
誰かの愛を受けてはじめて生きることができるのです。
どうか神と隣人に感謝する人生を。そして犠牲を伴うささげ物を神にささげましょう!

2018年12月23日(日)「インマヌエル」マタイ1章18~25節

メリークリスマス。待ち望みましたクリスマス礼拝です。
なぜ全世界で、そしてこの鈴蘭台の地でも共にお祝いするのか?
それは神の御子なるイエス・キリストが私たちのために地上においで下さった日であり、
クリスマスだからです。
二千年前、ダビデの町と呼ばれていたベツレヘムでお生まれ下さったお方は
二つの名前で呼ばれていました。それは、

1.「イエス」と呼ばれます。(21節)
ヨセフとマリヤに誕生した子に「イエスとつけなさい」と主の使いより言われます。
イエスとはヨシュアというへブル語名のギリシヤ語の形で「主は救い」という意味です。
それは罪から救う救い主であることを示しています。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と主の使いは
ヨセフに言います。ヨセフは「正しい人」(19節)ですが、しかし、
完全な正しい人ではありません。ヨセフ自身罪をもち、救い主が必要な人でした。
「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3・10)
全ての人に罪から救う救い主が必要です。

2.「インマヌエル」と呼ばれます。(23節)
「インマヌエル」とは「神が私たちと共に」という意味です。
人は孤独ではなく、神が共にいてくださる存在です。ヨセフはマリヤと離縁し、
責めを自分が受けようと思いました。しかしそれは孤独です。
そのことを防ぐためにも主の使いは「恐れないで・・迎えなさい」(20節)と言い、
神が介入します。私たちを罪から救い、共にいて下さる神の御子なるイエス・キリスト。
そのご降誕を共にお祝いしましょう。

2018年12月16日(日)「主は聖霊によりて宿り」マタイ1章18~25節

今クリスマスを待つ待降節の日々を過ごしています。
そして今「主イエス・キリストの誕生の次第」の箇所を読んでいます。
そこを読むと大変興味深いです。
そしてクリスマスの出来事は神の奇跡によってなされていることがわかります。
聖書は主イエスの誕生を「聖霊によって身重になった」(18節)と記しています。
まさにそこが大事です。

1.キリスト者の信仰告白として、告白されています。
キリスト者の信仰告白、使徒信条では
「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」と告白します。
マリヤの胎に宿った主イエス・キリストは、聖霊によりて宿っていたのです。
その証拠として
(1)聖書に証されている
(2)ヨセフはとまどい離縁しようと考えた
(3)イザヤの預言が成就した(イザヤ7-14)

2.神の奇跡の業です。
「聖霊によって身重になった」ことは、まさに神の奇跡のみ業で、
御子イエス・キリストが罪のない存在で生まれてきたことを示しています。
そして聖なる神性がゆるがないものであることも示しています。
それは人々を罪から救う者となるために必要なことでした。
イエス・キリストはすべての人の救い主(メシヤ)だからです。

3.新しい時代の到来です。
神が聖霊によりて受肉した以上、
今までの律法や、世の規則が支配したことの終わりを意味します。
新しい生き方が、み言葉に聞く信仰から生まれてくるのです。
律法の義ではなく信仰による義、恵みにより義とされる新しい生き方です。

2018年12月9日(日)「よみに床を設けても」詩篇139篇1~12節

聖書に示される神は自分のことをよく知っている神です。ダビデは言います。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っています。」(1)と。
神は多くの人の中からの自分を知っているのです。
そして聖書を通して私たちに語りかけているのです。

1.人はみな罪人であり、心に闇を抱えます。
ダビデはこう言います。
「私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」(8)
よみとは神のひかりが届いていない場所です。
しかしダビデはそこに神がおられると言うのです。
しかし多くの人はダビデとは違い、やみの世界のなかで光があることを知らず、
見えていないのです。
創世記1章では、
「やみが大水の上にあるところに神は仰せられた。
『光があれ』すると光があった。」(創1・3)と教えています。
このことはどんなやみでも光が差すというメッセージがこめられています。
ただ、人はそのひかりを見えていない人が多いのです。
イエス・キリストの弟子のユダのように、イエス・キリストと共にいて
心に闇を抱え続け、苦しみ続けるのです。

2.イエス・キリストこそ憐れみの光であること
イエスを裏切ったユダは、心の闇に、光なるイエス・キリストが
照ること、神のあわれみを知ることがなかったのです。
使徒信条に「主は・・十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」
とあります。
またヨハネの福音書では「すべての人を照らすそのまことの光が
世に来ようとしていた」とあります。
あなたの心を照らすために、まことの光、憐れみの光として来られたお方が
主なるイエス・キリストです。
その光は昔も今も輝き照らすことを止めません。

2018年12月2日(日)「」イザヤ書53章11~12節

日本人の4分の一以上がクリスマスは何をお祝いするか知らないと言われます。
本来クリスマスはChirstmasはCrist+mass
(キリストのミサ)つまりキリストを礼拝する時です。
クリスマスからキリストをとるとただのmass(集団・固まり)と
なってしまいます。集団で騒いで終わらせるのは空しいもののです。
そのためにはクリスマスの中心であるキリストを知ることは重要なことです。
キリストが人となられたのは事実で「この人であった」と。
イエス・キリストが人となられることは先に預言者であるイザヤが
預言していました。
キリストが人となられ、来られたのには大きな目的がありました。

1.神の子となる特権を与えるため(ヨハネ1・12)
人となられたイエス・キリストを救い主として信じるとき、
その権利が無条件に与えられるのです。

2.豊かな人となるため(Ⅱコリント8・9)
しかし、パウロはこう言います。
代りにイエス・キリストが貧しくなられたのです。

3.隣人にも注意を払うため(ピリピ2・4)
本来人は自分中心な者です。しかし自分のことだけでなく
他人のことも注意を払うようになり、愛を示します。
このために彼(イエス・キリスト)は来られたと預言者イザヤは
700年前から預言するのです。それは神の愛がそうさせていると言われます。
神は愛だからです。
今年のクリスマスはキリスト不在でなく中心にあるクリスマスで
ありますように。
神が人となられた目的を思い、その心を思いめぐらすアドベントの時と
しましょう。

2018年11月25日(日)「人生の支配者」創世記45章1~15節

本章はヨセフ物語の最大の見せ場です。とうとう自分を制することができなくなり、
ヨセフは人払いをして、兄弟たちに自分の素性を話します。
それは「わたしはヨセフです。父上はお元気ですか。」とのことばです。
何回も口にしたかった言葉をここで話しました。

1.神のみ業の前には人は無力です。(1~3節)
ヨセフの兄弟は驚き、「答えることができなかった。」
ヨセフが神の助けにより今まで生かされてきたこと、異国のエジプトで権力者となり、
食料を与えることのできる権限をもつ人となっていたこと。
「あなたがたがエジプトに売った弟ヨセフ」(4節)が、目の前にありました。
人間の考えや知恵では及ぶことのできない神のくすしき御業です。
そしてヨセフが心から兄弟たちを赦した瞬間でした。

2.人生の支配者(55~15節)
ヨセフは言います。「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、
私を遣わしてくださったのです。」(5節)7節にも同じことばを言います。
ヨセフは、苦難のなかで神の導きを、また、すべてのことの支配者は神であることを
信じることで忍耐し、希望をもてたのです。
そしてヨセフは摂理の神であり愛なる神をそのとき知るのです。
またこのことはヨセフにとってだけでなく、私たちお互いの人生も、
運命が支配するのでもなく、すべては神の支配のなかで生かされていることを
示しているのです。
そしてその人生の支配者である神は愛です。
神は罪のただなかにも罪の結果をも用いて恵みを備えられます。
十字架のイエスは自分を十字架につける者も含めたすべての人に対して
罪の赦しを与えました。
ヨセフの物語は現代の私たちに神の愛の支配を示唆しています。

2018年11月18日(日)「新しい歌を」詩篇第98篇1~9節

詩篇の多くは祈りと賛美で構成されています。
この98篇は「賛歌」と題があるように神への賛美です。
私たちの神は賛美されるべきお方です。ほめたたえられるべきお方です。
私たち一人一人に賛美の恵みを味わいものです。

1.新しい歌を(1節)
現在も多くの新しい賛美が生まれています。
詩篇が誕生した時代にも新しい歌が生まれ、賛美されていたのです。
ダビデは多くの賛美を作りました。ダビデ以後も新しい賛美が生まれていたのです。
現在も新聖歌だけでなく、新しい歌をもって礼拝で賛美されている教会も多くあります。
昔からの賛美も素晴らしいですが新しい賛美も主は受け入れておられます。

2.新しい心で(1節)
私たちは主にあって新しくされた者です。新創造された者です。
新しい心を神から与えられているのです。聖霊は人を変えていくのです。
使徒の働きを読むと聖霊は人を変えていくことがわかります。新しい心で賛美できます。
主のくすしきみ業を信じて賛美することそんなことが現代でも実現するのです。

3.喜びをもって(4節)
「全地よ。主に喜び叫べ」と喜びをもって賛美することを詩篇の作者は求めます。
悲しいことや辛いこと人生に多くあります。しかし主はいつの時代も慰めや癒しを与え、
罪からの救いを与えます。それは大きな喜びです。
いつも他者に対し憐れみ深い者でありますように。
今、喜びをもって大胆に賛美し主に近づきましょう。(ヤコブ4.8)

2018年11月11日(日)「憐れみに勝る恵み」創世記42章32~43章15節

1.苦難が続くヤコブ(42・32~43・2)
ヤコブは飢饉がまだ続き、食料難となります。
ヤコブは自分の息子たちに「再びエジプトに食料を調達するために行きなさい。」
と言います。しかし、息子のユダは、再度弟のベニヤミンを連れていくように、
エジプトの権力者が言われたことを父に告げます。
ヤコブの苦悩を思います。
ヤコブは息子のヨセフを失い、シメオンは人質にされ、今度はベニヤミンをも
奴隷になるか失うかもしれないという苦悩。
しかし、その時神の最後の訓練の時でもあります。

2.ユダの愛による犠牲(43・3~10)
ユダは父を説得させるためのことばかも知れませんが、
弟ベニヤミンのために犠牲をはらう覚悟について父に伝えます。
後晩年ヤコブはユダにこのように言います。
「ユダよ。兄弟たちはあなたをほめたたえ、
あなたの手は敵のうなじの上にあり」
(創49・8)と。

3.ヤコブの信仰(43・14)
信仰は苦難のとき成長することがあります。
かつて祖父アブラハムに現れた全能の神(17・1)その神を
ヤコブも信頼します。(Ⅱコリント1・9)
そして神の憐れみがあることを信じ求めます。
聖書の神は義なる神ですが憐れみ深い神でもあります。
私たちも全能なる神、憐れみ深い神を信じ、歩みましょう。
神は私たちの救いのためにひとり子なるイエス・キリストを
送ってくださったお方。
そして私たち信仰者はいつも他者に対し憐れみ深い者でありますように。
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」
(マタイ5・7)

2018年11月4日(日)「夢が現実に」創世記42章1~43章25節

ヨセフの人生は苦難の人生でしたが、それは神がヨセフに夢を見させたため、
兄弟たちから憎まれ、エジプトの地へ行くことになりました。
しかし、神の恵みによりエジプトの王パロの信任を得て、
エジプト全土の財産の管理者の職までになります。
そのときカナン地方に飢饉があり、エジプトには食料があるというニュースを聞き、
ヤコブは10人の息子たちに食料の調達にエジプトに行くことを勧めるのです。

1.夢が現実に
ヨセフが見た夢が現実となる日がきました。兄たちがヨセフにひれ伏すという夢です。
ヨセフは兄たちのことに気づきますが、兄たちはまだ気づいていません。
夢が現実となることは人間の不真実のなか神は真実なお方であること。
ヨセフがたどった苦難の道も神のご計画のなかにあることを示しています。

2.過去の罪を思い出す
ヨセフの兄たちがヨセフに対してしたことを思い出させるように
ヨセフはあえてしむけます。
いろいろな難題を言い、スパイ容疑、人質に兄シメオンなど出せということを。
そんななか兄たちは家族のことを話していきます。
そこで父と弟が生きていることをヨセフは知り胸が熱くなります。

3.罪は悔い改めることが必要
神は愛ですが、罪の報酬は死です。
ですから人は罪を認め、悔い改めることが必要なのです。
兄たちはヨセフに対して罪を思い出し、今その報いを受けているのだと悟ります。
ヨセフは兄たちを試します。
この「試す」の原語は「鍛錬する」という意味もあり、
兄弟たちはヨセフを通して神の鍛錬を受けることになります。

2018年7月1日(日)「上からの祝福」創世記28章10~22節

今日は神がヤコブに対して示された祝福とはどんなものか、そしてそれが
私たちにも与えられている神からの祝福であることを共にみたいと思います。
ヤコブは兄エサウに与えられるはずの祝福を奪ったことで、兄より命を
ねらわれ、父の家を出ることになったのです。

1.どん底のヤコブ(10、11節)
ヤコブは父より特別な上からの祝福(神の祝福)を受けたにもかかわらず
父の家を出なければならなくなりました。
今までの豊かな生活から逃亡生活となり、石の枕で野宿することになるのです。
今から約4千年前の古代社会での一人旅は危険な旅で、
自分を愛した母との別れ、ヤコブはすべてを失ったかのようです。
自己中心的な罪人の生き方の結果です。

2.夢見るヤコブ(12節)
ヤコブが石の枕で寝た場所は神の導きでもあり、そこで夢を見ます。
天からの梯子です。希望を失い、神がいないかのように思える時、
神の方からヤコブに近づかれたのです。
神がヤコブの側におられた。神は神を信じる者の側におられます。
(ヨハネ1・51)

3.神の約束を受けるヤコブ(13~15節)
石の枕で横たわっている場所を、ヤコブとヤコブの子孫に与えるという
約束を受けるのです。またその場所に連れ戻すと、
祖父アブラハム、父イサクが神から受けた約束をヤコブも頂いたのです。
聖書は、信仰も神の賜物、救いや神の祝福も神の賜物で、
自分の力で獲得できるものではないことを教えています。

2018年6月24日(日)●午前「神の真実」第二テモテへの手紙 章~節
●午後「キリストの弟子となる」マタイの福音書28章節~節
※24日は京都から船田献一先生をお招きし、午前と午後の聖会のメッセージを
して頂きました。

2018年6月17日(日)「帰るところがあるということ」ルカの福音書15章11~32節

帰るところがあるということは幸せです。
現在日本でも行方不明者が約8万人で、その人達には帰るところが
ないことも原因の一因となっています。

アウグスチヌスは「告白」の中で「あなたは私たちを、ご自分に向けて
お造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、
安らぎを得ることはできないのです。」とあります。
そのように神のもとに帰ることそのことが人間に必要なことです。

イエス・キリストは「群衆を見て、羊飼いのない羊のよう」だと
(マタイ9・36)言われました。
羊飼いがいなければ羊は迷い、弱り死んでしまう存在。
私たちは神によりみな造られた存在ですから神のもとに帰るべき存在
であり、またその場所が用意されていることを覚えたい。
ルカ15章の放蕩息子と父の関係は罪人と神との関係を示しています。

1.父は息子を愛するがゆえに待っています。(20節)
財産の半分をもち、行方不明となった息子を父は待っています。
父のもとに帰ってくることを。教会では羊飼いなるイエス・キリストが
待っておられます。

2.父はリスクをもって息子を待っています。(30節)
父の周りは息子を父の姿にあわれさを感じ、もう一人の息子は待っている
父を恥じています。今私たちは帰るのに何ももたなくてもよいのです。
だが神は御子イエスの犠牲というリスクをもって待っています。

3.父は私たちを息子として待っています。(22~24節)
父は帰ってきた放蕩息子に指輪をさせ、前と変わらず
息子として受け入れました。
子が子であることを拒絶しても父の目には子です。
そのことは罪人が赦され、神の子とされる驚くべき恵みを示しています。

2018年6月10日(日)「置かれた場所で咲きなさい」ルカの福音書23章44~48節

今日は花の日礼拝、昨年12月に天に召された渡辺和子先生の
「置かれた場所で咲きなさい」を再度読み、
置かれた場所で花を咲かせることの大切さと困難さを覚えました。
しかし、周りをみるとこんな場所できれいな花が咲いていると
気づく事もあります。
本の中でこのようにも書いています。
「どうしても咲けない時もあります。・・
その代わりに根を下へ下へと降ろして根を張るのです。
次に咲く花が、より大きく、
美しいものとなるために。」とありました。イエス・キリストは、

1.苦難を受けられた。(44~46節)
イエス・キリストの生涯は苦難の生涯です。そして十字架はその苦難の絶頂です。
罪なきお方が罪人となられた瞬間でもありました。
私たちも順調な時ばかりではないのです。置かれた場所が困難な場所の時もあります。

2.父なる神にゆだねた。(46節)
苦難のとき信仰を捨てず、父なる神に祈ります。
その言葉が「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
自分が今花を咲かせていないと思うときも根を下に下に張ることです。
それは信仰をもち、日々、主のみ言葉で養われていくことです。

3.正しい方と評価された。(47節)
百人隊長はイエス・キリストの敵の立場です。
しかし、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言い、
群集も胸をたたいて悲しみながら帰ったとあります。
イエス・キリストの姿に心打たれたのです。
私たちの生き様はどのように人々に今映っているのでしょうか。

2018年6月3日(日)「急いで降りて来なさい」ルカの福音書19章1~10節

エリコの町でザアカイは有名で、「収税人のかしら」とし人々から嫌われていた。
しかし、イエス・キリストはそのザアカイを見つけ、声をかけ、家で食事をし、
交わり(宿泊)をもちました。
この出来事でイエス・キリストが罪人の家にいたと非難を受けます。
それをも受け入れていたのです。ザアカイに対して、

1.名を呼ぶイエス・キリスト(5節)
いちじく桑の木に登っていたザアカイに対して「ザアカイ。」と
イエス・キリストは名を呼びます。
つまりイエス・キリストはザアカイのことを以前から知っていたのです。
そして名を呼ぶのです。

2.「降りてきなさい」と招くイエス・キリスト(5節)
ザアカイに「急いで降りて来なさい。」と言われたのです。どこへ?
それはイエス・キリストの側です。イエス・キリストは常に罪人を招きます。
人はザアカイのように自分の知恵や知識を誇りに生きています。
いちじく桑の木に登るのも知恵で、プライドをもって生きていました。
そして、ザアカイはその呼びかけに答えます。
最も絶望的な魂が生まれ変わっていく瞬間です。

3.家に泊まるイエス・キリスト(6~10節)
ザアカイは驚くばかりの恵みと愛に富んだ神のみ前に自分の罪を認め、悔い改め、
今までの行き方と違う別の生き方をします。
人は新しく生まれ変わることができます。
今は恵みの時、救いの日です。
今急いでイエス・キリストのもとに来る大切な決断をしませんか。
いつまでも延ばしてはならないのです。自らの頑な自我やプライドを一切捨てて。

2018年5月27日(日)「霊的なもの」創世記25章19~34節

イスラエルの民はアブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神を讃えています。
アブラハム、イサク、ヤコブはそれぞれにロト、イシュマエル、エサウと比較して
霊的なものをもとめ、その賜物を受けています。
しかし、それを軽んじたり、目に見えるもののみを頼り、求めていくと、
その霊的なものに目が入らず、結局神の祝福さえも受けず、後悔することになります。
霊的なものは目には見えませんので、求めるにも神への信仰が必要とされます。

1.とりなしの祈りを重んじる。(21節)
祈りは霊的なものです。そして神は祈りを聞き、神の祝福を得るのです。
19節以降よりイサクの生涯が中心となりますが、
40歳で結婚したラバンの妹である 妻リベカは不妊の女性だったため、
イサクは妻のため祈ったのです。
神はそのイサクの祈りを聞かれ、みごもり双子のエサウとヤコブが与えられたのです。

2.長子の権を重んじる。(31~33節)
ヤコブとエサウは成長し、兄弟でしたが、性格も仕事も全く違い
「エサウは巧みな猟師、 野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、
天幕に住んでいた。」(27節)
エサウは兄でしたがその長子の権を軽んじ、わずかな食事(レンズ豆の煮物)で
その権利を弟のヤコブに売ったのです。
私たちも信仰によって与えられた聖霊の賜物や、神の子としての特権を
はかないもので売らないように、軽んじないように。
ずる賢いところもありますが、ヤコブのように長子の権を重んじることが大切なのです。

2018年5月20日(日)「聖霊に対する信頼」ルカの福音書12章8~12節
主の復活より数えて50日目に聖霊が注がれたことを記念し、
教会はペンテコステ礼拝 (聖霊降臨日)をもっています。
私たちもこの時代の中で主を信じることができ、共に礼拝をささげているのは
聖霊の働きが一人一人にあるからです。
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
(Ⅰコリント12・3)そして聖霊の注ぎを受けた者は、

1.信仰に生きる者(ルカ12・8、使徒1・8)
聖霊を受けた者は主なるイエス・キリストを救い主と信じ生きることができます。
迫害を受けたとしても信仰を守ることのできる力を与えられるのです。

2.証をする者(ルカ12・12、使徒1・8)
証とは主が自分になしてくださった体験です。
聖霊は私たちに力を与え、信仰と命を支えるのです。
そして証をせずにおられなくなるのです。
ある牧師は「雑談するのにも力が必要です」と言われたことがあります。
証をするには力が必要です。最初の人アダムに息を吹きかけたように(創2・7)
私たちにも聖霊を与えて言うべき言葉を示してくださるのです。

3.先のことを心配しない者(ルカ12・11、マタイ6・34)
聖霊を受けた者はみな聖霊に対する信頼をもちます。
そしてその者は先のことを心配しない者に変えられます。
イエス・キリストは言います。「あすのための心配は無用です。」(マタイ6・34)
もし先のことを心配しているならば、聖霊を求めて祈ることです。
どんな人にも聖霊が下れば新しくされ、心のうちに平安が与えられます。

2018年5月13日(日)「十戒を知る」出エジプト記20章12節

本日は母の日礼拝です。十戒に「あなたの父と母を敬え」とあります。
このみ言葉から教えられたいと思います。 十戒は律法の中の律法で特別な存在です。
十戒は大切に契約の箱に保存されていきます。 その十戒の中の第五の戒めが今日の戒めです。

1.両親を敬うことの大切さ 十戒には神に対してと人に対しての律法があり、第五の戒めは人に対してです。 特に母の日に際して、母を敬うことが神のみ心です。そこに神の祝福があるというのです。 イエス・キリストも母マリヤを愛し、仕え、十字架上でも思いやる心を持ちました。 (ヨハネ19・26、27)   2.両親の権威に従うことの大切さ 父と母を敬うことが十戒にあることはそこに権威があるからです。 エペソ人への手紙6章1節では「主にあって両親に従いなさい。」とあります。 敬うだけでなく、従うこともパウロは求めています。 しかし、ここでは「主にあって」とあり、権威の源はやはり主です。 ですから両親が主に反することやみ言葉に反することを命じるならば服従することは ないのです。 イエス・キリストは言います。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者 ではありません。」(マタイ10・37)と。 十戒は人間に指摘するだけでなく、正しい道を教えています。そして私たちを常に イエス・キリストのもとに導くのです。(ガラテヤ3・24) 十戒などの律法を軽んじたり、逆に律法主義者になってはいけませんが人間の考えで 簡単に破ってはいけないものです。

2018年5月6日(日)「アブラハムの人生最期の時」創世記25章1~10節 「信仰の父」と呼ばれたアブラハムは175歳まで生き、その生涯を終えました。 彼の生き様は現代の私たちにも多くのことを教えています。 一人の命の尊さ、神を信じて生きる幸いをみます。   1.多くの国民の父となるアブラハム(1~6節) アブラハムはサラの死後、ケトラという女性を妻とし、6人の子どもが与えられます。 先にイシュマエル、イサクの他に。その結婚が神のみこころがどうかわかりませんが、 17章1節の「あなたは多くの国民の父となる」この預言が実現したのです。 しかし、神の祝福の継承を受けるのはただ一人、イサクです。アブラハムの全財産は イサクに受け継がれるのです。信仰も同じく。 他の子どもたちは贈り物を与え、死後混乱を与えないように配慮しています。 他の子どもたちは東の方へ移り、アラビヤ民族の祖になります。 現代、アラブとイスラエルとの戦いがあることは悲しいこと。 神の御心はいつも平和で神との和解、人との和解です。   2.アブラハムの最期(7~10節) アブラハムは信仰の旅路を歩み、175歳の生涯を地上で歩みます。 「息絶えて死に」(8節)を新共同訳聖書では「満ち足りて死に」とあります。 その言葉には神に満たされた人生を意味します。私たちも信仰の生涯を全うすることを 神は望んでいますし、一度きりの人生後悔をしないで神の豊かな祝福を受け、 満たされた人生を歩みましょう。 そのために自我を捨て、主のみこころを第一とした聖霊に満たされた人生こそ 神の喜ぶ人生です。光の子どもとして輝いた人生を。

2018年4月29日(日)「リベカの信仰」創世記24章45~67節 結婚は人生の重要事項で、外面的なものにまどわされ、結婚することの意味も深く考えず 結婚すれば大きな煩いを生みます。 また結婚することで捨てなければいけないものがあることも事実です。 アブラハムのしもべはイサクの嫁探しのため祈り労し、ついに親戚のリベカと 出会いました。   1.アブラハムのしもべとリベカとの出会い(45~53節) よく偶然ということばを使いますが、キリスト者には偶然はなく、 みな必然であり、神を信じる者には神の深い計画があるのです。 そのことを神の導きとして受け取るか、そうでないかで人生が決まるのです。 しもべはその出会いを神の正しい導きとして受け止め、イサクの嫁候補としてみます。 アブラハムの兄弟の家の女性(47)、親切と善意ある女性(45,46)、 美しく純潔な女性(16)などから確信したのです。   2.リベカの信仰から来る決心(54~67節) リベカはまだ会ったこともないイサクの妻になることを決心します。 そして期間もとらず、乳母とともにアブラハムのところへ行くのです。 そこにはしもべの主人アブラハムに対する忠誠、そしてイサクが大切な人であること。 また自分の父がアブラハムの甥であること、神が道を開いておられることを思い、 信仰をもって決心をしたのです。 信仰者は神の招きに従い旅立つ者です。まさにアブラハムと同様「どこに行くのか 知らないで」嫁いで行くリベカの姿がそこにあります。(へブル11・8) そしてイサクはリベカと出会い、結婚し、母の死後、慰めをリベカから受けるのです。 (67)

2018年4月22日(日)「信頼と委託」創世記24章1~27節 23章でアブラハムの妻サラが死に、埋葬されたことが記され24章はイサクの嫁探し。 埋葬と結婚は人生の最も重要な事柄でお葬式と結婚はこれをなすことで 人は世代交代をします。アブラハムにとってイサクの嫁探しは重要なこと。 偶像の神々を信じている地域に拠点をおいていたので、 信仰の継承のためには重要なことだったのです。   1.大切な役目を受けた年寄りのしもべ(1~9節) アブラハムからイサクの嫁探しを一族の住む故郷から選ぶように託されたのは 年寄りのしもべで、そのしもべを信頼したアブラハム。 まさにイエス・キリストと私たちとの関係に似ています。 イエス・キリストは大切な使命を私たちに委ねています。 タラントのたとえがそうです。「たくさんの物を任せよう」と信頼して 任せています。(マタイ25・14~30)   2.しもべの計画と祈り(10~27節) 使命の大切さを知るしもべは自分の経験だけに頼らず、神に祈ります。 そしてイサクの相手に優しさといたわりを求めます。 夫婦に大切なことは同じ価値観をもつこと、 そして妻は夫を支える優しい気持ちが必要。(創2・18、24) アブラハムは旅人をもてなすことを重要なこととし、その姿を見ていたしもべ。 自分に水を汲む、またそばにいるらくだにも。 そのように故郷の一族の中から優しい、思いやりの人を求めた。 女性に限らず男性も御霊の実は「愛、・・親切、善意」(ガラ5・22)があり、 現代のクリスチャンも、自分の自我を十字架につけ御霊の実を結ぶように 求められています。

2018年4月15日(日)「主の山に備えあり」創世記22章1~14節 アブラハムは不信仰のなか、約束の子のイサクが与えられました。 まさにアブラハムの信じた神は全能の神であることを再確認できたのです。 そのアブラハムに神は愛するひとり子イサクをささげることを命令されたのです。 ここで教えられることは、   1.理解しがたい神が与えた試練(2節) まさに理解できない神の試練をアブラハムは受けます。 そして、それを実行するためにモリヤの山にイサクを連れていったのです。   2.アブラハムの信仰による従順(3節~10節) アブラハムはひとり子をささげる神の命令に従順に従いました。 それは神への信頼からくる従順です。 イエス・キリストもおのれを低くし、死に至るまで父なる神に従順でした。 (ピリピ2・8)まさにアブラハムは従順な者だったのです。   3.アブラハムの復活信仰(へブル11章17~19節) へブル人への手紙11章17~19節を読むとき、アブラハムが、 死からよみがえる復活信仰をもっていたからイサクを取り戻したと記されています。 それゆえ愛するイサクを犠牲にすることができたのです。 しかし、イサクは死ぬことがなく、代わりにモリヤの山にいた雄羊が燔祭として ささげられました。まさに主の山に備えありでした。 私たちの救いのためには、主なるイエス・キリストは十字架上で犠牲の死を なしとげられました。つまり父なる神は愛するひとり子を惜しまずささげたのです。 (ヨハネ3・16)それは多くの私たち罪人の救いのためです。

2018年4月8日(日)「皮袋の水は尽きる」創世記21章1~21節 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12・13) 悲しむ者と共に悲しむことができても、喜ぶ者と共に喜ぶことは なかなかできないものです。 人の幸福を喜べないそんな人間の弱さを思います。 アブラハムとサラとの間に待望の子どもイサクが与えられます。神の奇跡の業です。 しかしそのことでまた別の問題が起こります。 サラとハガルとの間、イサクとイシュマイルとの間に。 イサクが成長したとき、イサクがイシュマエルにからかわれます。 それをみたサラが気分を害するのです。   1.子の罪は親のせいか?(8.9節) 子の犯した罪は親のせいなのか?そんなことを考えます。 しかし、子は親から学ぶこともあります。 ハガルがかつてはサラの女奴隷の身だったのに、サラを見下したこと。 その母に対して子のイシュマエルのした行為はやはり妬みの罪です。 罪の報いは必ずあること。そのことを聖書は伝えています。   2.ハガルとその子の二回目の荒野追放(14~19節) ハガルとイシュマエルは荒野に追放されます。 そのことを神は許しているかのように。アブラハムは前回と違い、少しの優しさとして パンと皮袋に水をもたせます。しかし、その皮袋の水は尽きたのです。 絶体絶命の危機です。神は神に寄り頼むものを顧みられます。 自分に頼らず、人に頼らず、神のみ信頼するものを神は助けます。 イエス・キリストが十字架で死を経験し、復活されたように。 自分に死ぬ経験がキリスト者には、必要です。 神は少年イシュマエルの声を聞かれたのです。

2018年4月1日(日)「死に勝利し、復活されたイエス」マルコ16章1~20節 本日はイースター(復活祭)の記念すべき良き日です。 イースターおめでとうございます。本日この聖書箇所よりイースターメッセージを とりつぎます。イースターでの出来事は、   1.驚くべき歴史的事実(1~7節) イエス・キリストの十字架、そして3日目によみがえられた復活は歴史的事実です。 これは誰にもくつがえされることはできません。 イースターの事実こそ、キリスト教が今日まで存在し、教会も存在し続けている ゆえんです。   2.人間が簡単に信じられない出来事(8~14節) この復活は弟子たちやそばにいた女性たちも信じられないほどで、 空(から)の墓も見ても信じられない女性たちがいました。 主の復活は人間が簡単に信じられない出来事であることを示しています。   3.信じる者に喜びと希望を与える出来事(15~20節) 人間が容易に信じられない出来事、この復活を信じた者は、 悲しみから喜びに、絶望から希望へと導かれます。 そして信じた者たちが復活の証人として命がけで人々に伝えてゆくのです。 死が終わりではなく、天国が存在し、 十字架で無力で敗北者のような姿を見せたイエス・キリストが 復活により勝利者としての姿と変えられます。 私たちの罪のために死なれたイエス・キリストは、私たちを共によみがえらせる恵みを 与えました(エペソ2・6)。死は天国への入り口です。 イエス・キリストを信じるとき、救いの喜びと、永遠の命の希望をもつのです。

2018年3月25日(日)「わが神よ、あなたはなぜ」マタイ27章22~50節 エルサレムに入られたイエス・キリストは多くの群集の歓迎にあったが、 一変してイエス・キリストは捕えられ、鞭打たれ、 エルサレムの門の近くのゴルゴダの丘で十字架に架けられたのです。 その十字架は、   1.歴史的事実としての十字架 マタイだけでなく、他の福音書もイエス・キリストの十字架が記されています。 そして弟子たちも十字架に架けられたイエス・キリストを大胆に伝えていったのです。 十字架はまぎれもなく歴史的事実です。   2.理不尽な十字架 イエス・キリストは神の御子でありながら 理不尽な刑として十字架を受けられました。 そこにはイザヤが預言したとおり苦難の十字架。(53章) イエス・キリストは世の理不尽さを身に受けました。 私たちも「わが神よ、なぜ」という問いをする者です。 理不尽な扱いを受け、苦しむこともあります。 イエス・キリストはそのことも体験されたのです。 「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」 (へブル4・15)それゆえ私たちに同情でき、救うことができるのです。   3.すべての人の罪を背負う十字架 イエス・キリストは最後まで罪を犯さず、苦しみを受けて叫び、 その叫びは捨てられるはずのない御子がすべての人の罪を背負い 神の裁きを受けた証です。 イエス・キリストが十字架を拒否し架からなかったとしたら、 神の裁きが下り、全人類は滅びてしまったことでしょう。 イエス・キリストの十字架によって私たちの罪は赦され、 永遠の命を得ることが出来たのです。

2018年3月18日(日)「手でつかんで救う神」創世記19章1~26節 聖書の神は愛なる神と同時に義なる神で、   1.悪を裁かれる神 18章でソドムとゴモラの人々の罪のゆえ町が滅ぶことを 神の友であるアブラハムには教えられていたをみましたが、 そのことが現実に起きたことのです。 義なる神は悪をそのままにはなさらないのです。 「罪からくる報酬は死です」(ローマ6・23)という言葉は真理です。 人は自分の都合の良い神をつくりだし、自分の罪をもあいまいにしやすいのです。 ソドムゴモラの人々は以前から「ソドムの人々はよこしまな者で、 主に対しては非常な罪人であった。」(13・13) そして今性的にも堕落して、不道徳が若者から老人まで広がってきたのです。 (19・4,5) そしておとぎ話のようですが歴史的に実際に起きた事件なのです。 神は天から硫黄の火を降らせ、ソドムとゴモラを滅ぼしました。   2.祈りを聞かれる神 アブラハムのとりなしの祈りで甥ロトを救う道を神は用意されました。 ロトはソドムの町から離れず、罪の誘惑に負けていた者でした。 そして影響を受けていました。 妻はそれを慕う心をもち塩の柱になりました。   3.義人ロトを救う神(Ⅱペテロ2・7) ペテロの手紙第二ではロトを義人ロトとしています。 最後までためらうロトに主の使いはロトそしてその妻、その娘の手をつかみ、 救おうとしたのです。(16)神のあわれみです。 私たちキリスト者の救いもみな神の憐れみがあり、 ただ恵みにより救われているのです。そして義と認められるです。 (エペソ2・4.5)

2018年3月11日(日)「神との駆け引き」創世記18章23~33節 神との駆け引き(交渉)とは本来良いことなのか、恐れおおいことではないか。 しかしアブラハムは創世記18章後半でしている。 そのことを神の赦しのなかで行われていた。 アブラムハムは神の友であり、隠されていたことも教えている。 私たちも隠されている奥義が聖書により明らかにされ信仰をもっているのです。   1.神の友アブラハム ソドムとゴモラの人々が罪のゆえ町が滅ぶことをアブラハムには教えられていた。 私たちも神の友ゆえ、奥義を知る者とされている。 十字架の奥義、神の国の奥義など それゆえ大胆な信仰をもち続ける力となっていくのです。   2.アブラハムの熱心なとりなしの祈り 神との駆け引きでもあるがとりなしの祈りです。 その祈りは甥のロトに対する愛の祈りです。 自己愛ではない他者への愛から来たものです。 そして神への信頼による祈りです。祈りは神への信頼なくしてできません。 必ず祈りを受け止めてくださる方だと信じて祈るからです。 これが神への信頼です。 そしてかつて「ひれ伏し、そして笑った」(17・17)アブラハムが 「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。」 と祈ります。 神へのとりなしの祈りはまた謙遜な者しかできません。 神は祈りを聞き、ロトとその家族を救うことを引き受けるのです。 ソドムゴモラから離れないロト、その家族にも問題がありますが、 神は祈りを聞かれるお方。 そしてキリスト者は祭司の仕事をも与えられています。 とりなしの祈り手になりましょう。

2018年3月4日(日)「ひれ伏して、笑った」創世記17章15~25節 アブラムが99才の時、再び神の言葉が臨んだ。そして、アブラムは神と契約を結び、 名前も新しい名前アブラハムを頂くアブラムでしたが、神の約束の言葉を素直に聞いていますが、 すべてを信じることができませんでした。信仰の父と呼ばれるアブラハムでしたが、信じられず、   1.ひれ伏して、笑ったアブラハム 「ひれ伏して、笑った」とは興味深い言葉です。神にひれ伏す態度を示しながらも、 神の約束を信じられず、笑ってしまうアブラハムがそこにいます。 不信仰の笑いです。後には妻のサラも笑います。 私たちキリスト者は神のみ言葉を土台として日々養われ、支えられ、強められる者として歩みたいです。 イエス・キリストはこのように言います。 「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」 (マルコ13・31) 私たちは不信仰に傾きそうになる自分をいつも信仰の方向へしっかりと身体を向け、 み言葉を土台にすること。そのことが重要です。   2.アブラハムを見捨てない神 アブラハムは、不信仰で笑い、神の約束を自分の解釈でまだ誕生しないイサクでなく、 イシュマエルを跡継ぎにすることを思うのです。 しかし、神の選びは変わらず、アブラハムを選んだ神はこれからもアブラハムを導き続けるのです。 神の忍耐がそこにあります。私たちキリスト者にも同じです。 忍耐と励ましの神が私たちの神で、どんなときでも導いておられるのです。(ローマ15・5)

2018年2月25日(日)「アブラムとの契約と割礼」創世記17章1~27節 アブラムが99才の時、再び神のことばが臨んだ。そして、   1.神と契約を結ぶアブラム(1~4節、6節) 神の一方的な恵みにより契約を結ぶことになるアブラムでした。 15章においては信仰により神から義と認められたことも神の選びと恵みのみ業です。 行いによるものではなく、信仰による義だからです。 そして神との契約です。私たちにも救い主イエス・キリストを信じる信仰により義と認められ、 信仰により神の子の特権をもつことができるのです。(ヨハネ1・12、ローマ4・24)   2.名を新しく頂くアブラム(5節) 神はアブラムに新しい名を与えた。アブラハムです。 神が名を与えられるというのは、神がそうしてくださると 新しく造りかえられる者として導かれることを意味します。 アブラハムの名の意味は「多くの国民の父」です。 まだアブラハムと妻サライには子がありませんが、 神は後にイサク、イサクの子にヤコブが与えられ、イスラエル民族の祖先となるのです。 私たちも古い人のままでなく、新しい人を身に着るべきです。(エペソ4・24)   3.割礼を受けるアブラム(23~17節) 割礼とは男性の体に傷をつけることですが、これは神との契約のしるしであります。 しかし形だけ契約を守っていても中身がともなわないと意味がありません。 預言者エレミヤは「心に割礼を受けよ」と言われました。(エレミヤ9・26) 私たちも心から悔いて砕かれた魂で痛みをも覚えつつも 全能なる神に素直に降伏し、従う者となりましょう。

2018年2月18日(日)「全き者となりなさい」創世記17章1~6節 1.沈黙の後の神の現れ(1節) 16章において神の言葉はアブラムに臨みませんでした。 女奴隷ハガルには主の使いを通して神の介入はありましたが、神の沈黙。 それはアブラムの不信仰、不従順の結果だと思われます。 イシュマエルの誕生後、99歳までに13年が経っています。   2.全き者であれ(1~2節) アブラムが99歳の時、再び神が現れ、神の言葉が臨みます。 その時、アブラムに神への思い、祈りが芽生えたのかもしれません。 「わたしは全能の神である。・・・全き者であれ」と言われます。 また後にはすべてのイスラエル人にもそのことを求めます。(申18・13) 神のみ心は全き者であること。それは人間の努力や徳ではとうていできないこと。 そのためには神のみ前に歩み、罪が示されたら悔い改めることです。 そして信仰による義を受けることです。(創15・6)   3.祝福の約束(4~6節) アブラムはここでも神の祝福の約束を受けます。神の選びとしかいえないことです。 そのためには神のみ前に歩み、全き者となる必要がいります。 私たちも神の選びの中にあること、祝福を受ける者であり、 そのために神のみ前に生き、全き者となることを願い望むことです。 私たちは罪人であってもイエス・キリストの十字架の血による聖め、聖霊による聖めを頂き、 信仰による新生、義認、聖化の恵みを受け、全き者となることができるのです。 「恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1・16)と。 イエス・キリストによる恵みを受けましょう。

2018年2月11日(日)「ご覧になる神」創世記16章1~16節 ペテロの手紙第一5章7節 1.アブラム家族の危機(2~5節) アブラムの妻サライは神の約束を信ぜず、女奴隷を代理妻とし、 産んだ子の母になる計画をもち、アブラムに提案します。 しかし、その提案をアブラムは受け入れます。 アブラムの不信仰の行為です。その結果、子どもを身ごもりますが、 女奴隷ハガルは女主人サライを見下げるようになり、サライは傷つくこととなり、 自分の責任の転嫁を夫であるアブラムにします。(5)   2.無責任なアブラム(6節) アブラムは「彼女をあなたの好きなようにしなさい」と妻サライの好きにさせるのです。 あまりにも無責任なアブラム。そのことでサライはみごもっているハガルを虐待するのです。 現代にも起こりうること、被害者が虐待者になることを教えているように、 その結果ハガルはサライから離れ、家を出ることになります。   3.神の介入(8~13節) しかし、荒野にいたアブラムの子をみごもっていたハガルに主の使いがあらわれ、 家にもどるように指示を受けます。 そしてその子は男の子で名をイシュマエルとつけること、あなたの子孫を増やす」と言われたのです。 ハガルも主のみ名を呼び、「あなたはエル、ロイ」と言います。 「私を顧みられる神」という意味です。 私たちも気の毒な立場に立たされている時があります。損な人生を送っていると嘆くこともあります。 神は苦しみの祈りを聞かれる神であり、謙遜に生きるなら神は私たちのことを目を留めて下さるのです。 (詩8・4、Ⅰペテロ5・7) 私たちの神はご覧になる神なのです。そのような経験をもって感謝できる信仰者になりたいものです。

●2017年2月4日(日)「アブラムの祝福(信仰による義)」創世記15章1~6節 アブラムがゲドルラオメルの連合軍を打ち破り、ロトとその家族を救った後に 主はみ声をかけられるのです。 「あなたの受ける報いは非常に大きい。」(1節)と。 しかしそれを全部受け入れることができないでいるアブラムがそこにいました。 「信仰の父」と呼ばれたアブラムでしたが、 さまざまな経験を通して成長していくのです。 しかし、本章でもアブラムから私たちは多くのことを学びます。   1.本音でぶつかるアブラム(2~3節) 抑えてきた感情を主にぶつけます。 自分にはまだ子どもがなく、だんだんと年をとってきていたからです。 「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。」(2節)と 本音でぶつかるアブラムがそこにいます。   2.空の星を見上げるアブラム(5~6節) 「さあ、天を見上げなさい。」と。アブラムは空を仰ぎ、星を見たのです。 そこには無数の星があり、アブラムは励まされたのです。   3.義と認められたアブラム(6節) この主とアブラムとの関係を通して、 私たちはもっと主に期待を置き、信じることの大切さを教えられるのです。 人間は目に見えるもののみ信じる者ですが、 信仰者はイエス・キリストの弟子トマスにいわれた言葉をいつも思うことです。 「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20章29節) アブラムはまだイサクが生まれていないそのとき 「あなたの子孫はこのようになる。」との主の言葉を信じる信仰により 義と認められたのです。 行いによる信仰義認でなく、信仰により。(ローマ4章2~3節)

●2017年1月28日(日) 「新しい人アブラム」創世記14章1~24節 前回はアブラムの祭壇の生涯をみました。 それゆえ神はアブラムを祝福し、新しい人アブラムへと導きます。 人は新しく変わることができるのです。そのことをアブラムから学びます。   1.勇敢なアブラム(14~16節) アブラムと別れてソドムにいるロトのために いのちをかけて救おうとする姿があります。 「兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3章16節)のみ言葉を思います。 アブラムだけでなく318人のしもべたちも、戦いの経験もないのに勇敢に戦います。 主人アブラムから愛され、またアブラムを信頼していたからです。   2.愛があるアブラム(14~16節) アブラムは、しもべたちを愛し、そしておいのロトを愛する愛。 かつて自分の妻さえ妹と偽り嘘、夫婦の危機をもたらしたアブラムでしたが 今は変えられていたのです。 祭壇それは礼拝で、礼拝のなかで聖霊を受けて、新しく造られた者とされるのです。 (Ⅱコリント5章17節)   3.祝福を受けるアブラム(18~20節) 祭司メルキゼデクよりアブラムは祝福を受けます。 毎週の礼拝の中でも牧師より祝祷を受けます。 新しく造られた者は神の祝福を受け、祝福の基とされます。 そして感謝し、メルキゼデクに十分の一をささげます。 十分の一献金の最初の聖書の記述です。 キリスト者は月定献金をささげることが大事です。 そして聖書には十分の一をささげるよう示しています。 (マラキ3章10節、マタイ23章23節) 献金はさらにキリスト者が経済的にも神の祝福を受ける道とし 定められているのです。

●2017年1月21日(日) 「祭壇の生涯」創世記13章1~18節 前回はアブラムの失敗と挫折の所を学びました。 人間は成功よりも失敗から多くのことを学ぶものです。   1.信仰に立つアブラム アブラムは過去の失敗と神のあわれみを体験し、そこから学び、13章で信仰に立ちます。 彼はエジプトを出て、べテルとアイの間にとどまり、 神に以前祈った場所で信仰の原点に立ち返ります。   2.問題を抱えるアブラム アブラムはそこで問題を抱えます、所有物と財産そして食糧問題です。 そしてアブラムはおいのロトと共に生きることができなくなってきたのです。   3.神に信頼するアブラム 土地を優先する権利は自分にあるにもかかわらず、 アブラムはおいロトに選択権を先に与えます。 そのことは神に対する信頼から来るものです。アブラムは霊の人、ロトは肉の人。 ロトはおじアブラムのその指示を受け入れ、自分の欲で先に土地を選んだのです。 ヨルダンの低地は緑が豊かで牧畜には適している場所です。 ロトは見えるものにより判断し、見えない神を信頼するものではなかったのです。 アブラムは神が示す地を選び、そこで祭壇を築きます。(18節) 祭壇を築く行為は現代では神への礼拝の姿勢の表現です。 私達も礼拝の祭壇、そして水曜日の聖書と祈りの集いや早天祈祷会にも参加し、 また朝早く一人で家で祈りの祭壇を築きましょう。 私たちは一年に52回聖日礼拝があります。 新約においても旧約においても私たちの原点は「礼拝の民」です。 一人一人祭壇の生涯を送りましょう。神の祝福の民としての自覚をもって。

●2017年1月14日(日) 「失敗と挫折を超えて導く神」創世記12章10~20節 本日より再び創世記より講解説教をします。 前回はアブラハムが旅立った記事を取り上げました。 主の祝福の約束を信じ、新しい地に踏み出したのです。しかしそこでは大きな困難がありました。 一つは飢饉、そしてもう一つは大国エジプトの国の人々からの脅威に会うことです。 そのことで神に不満を訴えたかもしれません。ここから3つのことを学びます。   1.失敗するアブラハム(13節) アブラハムは飢饉に会い、自分たちの身を守るためどう生きるかと悩んだと思います。 その結果、大きな罪を犯します。 妻サラが美しいため、エジプト人はサラを欲しがり自分を殺そうとするだろうと、 自分の妹であると嘘をつくのです。 このことは倫理的に赦せないことですが、信仰的にも赦せないことをしたのです。 それは、妻サラに姦淫の罪を犯させることであり、神の約束を無視したことでした。   2.挫折するアブラハム アブラハムは罪を犯したことに気がつき、深い挫折感・絶望感をもつようになります。 人間への恐れと、愛する妻との別れのなかで。   3.神の守りと導きを受けるアブラハム 妻サライのことでパロと宮廷に災害を与えましたが、二人は危機から守られました。 ただ、「あなたは・・何ということをしたのか。」と神は言われます。 かつて神は、エバに対して同じ言葉を言っています。(3章13節) 罪を認めることで救いが始まるのです。 神はときに異邦人をも用いてまで教え、救い出してくださるお方です。 約束されたことを実現しようとする真実な神です。(Ⅱテモテ2章13節)

●2017年1月7日(日) 「礼拝に生きる年」コロサイ3章16節 毎年新年礼拝においては教会標語と聖言から説教しています。 2018年度は4月からですが、標語「礼拝に生きる年」 聖言はコロサイへの手紙3章16節です。 信仰者は礼拝に生きる者であり、礼拝において成長していくものです。 そこには幸いな主にある交わりがあるからです。 義務ではなく、恵みとして日曜日、礼拝をささげて神の豊かな祝福の道を 2018年度も歩みましょう。   1.恵みとしての礼拝 十戒に確かに「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とありますが、義務として 日曜日礼拝を守るのではなく、恵みとしての礼拝でなければ続きません。 イエス・キリストはサマリヤ人の女性を罪から救っただけで満足されないで 礼拝のことを告げました。 「神は霊ですから、・・霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 (ヨハネ4章24節)と。 罪人を救いに導き、礼拝の民とされたのです。そこに大いなる神の恵みがあります。   2.御言葉で養われる礼拝 礼拝の中で重要なものに聖書朗読と説教があります。そこでは御言葉が伝えられます。 コロサイ3章16節には「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせ」とあります。 聞くことから始まり、その御言葉より養われて、信仰者は成長するのです。   3.賛美と感謝にあふれた礼拝 当時初代教会は「詩と賛歌と霊の歌」をもって賛美の礼拝がもたれました。 古くからの賛美歌も新しい賛美も大切で神をほめたたえること。 そして、感謝にあふれた礼拝をもつことが大切なのです。

●2017年12月31日(日) 「神の守り」マタイ2章12~23節 今年最後の礼拝です。まだクリスマス礼拝の余韻がある時期です。 今日の聖書箇所では、東方の博士たちが別の道を通り自分の国へ帰って行ったこと、 ヨセフ、マリヤとイエスがエジプトへ逃避し、帰国したことが記されています。 そこに神の守りがあったこと、神を信じる者を神は共にいて守って下さいます。 そのことを確信しましょう。   1.東方の博士たちの守り 博士たちは夢で「ヘロデのところに戻るな」(12節)とみ告げを受けました。 そのままヘロデのところへ行けば、イエスのいる場所が示され、殺されていたでしょう。 イエスの守りと博士たちの守りがあったのです。 また「別の道」(12節)とは象徴的です。 今までと違う道であり、神の守りの道です。試練の中にも「脱出の道」を用意する神です。 (Ⅰコリント10章13節)   2.聖家族の守り 神は主の使いを通してヨセフに語りかけ、夢で、危機が迫っていることと、 すぐにエジプトへ逃げることを示されました。 そんな理不尽なこともマタイは預言の成就だと言います。 「わたしの子をエジプトから呼び出した。」(ホセア11章1節) これも神の御手の中で起きたことで、預言の成就、そしてメシヤの証であり、聖家族の命が 守られました。   3.信仰者たちの守り 信仰者は、すべての出来事が神の御手の中にあることを、現実としてみる者であり、 そのことが必要です。 そして試練の時も私たちの神はインマヌエルの神であることを忘れてはいけない。 現実逃避でなく、日々神の導きと守りがあることを信じていきましょう。

●2017年12月24日(日) 「クリスマスの日、あなたは」ルカ2章8~20節 クリスマスおめでとうございます。 礼拝のなかで、共 に救い主イエス・キリストの誕生をお祝いできる喜びをもてますことに感謝です。 そして、今年のクリスマスはお互いに特別な日となれますように。 クリスマスを知らない人はいないでしょう。しかし、誰を、何のためにお祝いしているのか わからないでいる人が多いことでしょう。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日です。 私たちは今、聖書のみ言葉を通してそのことを確認しましょう。   1.神が人となられた日であること。 羊飼いに主の御使いより託されたメッセージは、ダビデの町(ベツレヘム)であなたがたのために救い主が お生まれになったことでした。 神が人となられた日、羊飼いはその場所に行って、その事実を確認します。 私たちも、私たちのために、神であられる方が人となられた事実を受け止め、共に喜び合いましょう。 救い主は空想の存在でもなく、私たちと関わりのない方ではありません。 私たちに不幸、悲しみ、苦しみの根源である罪からの救いを与えるお方、救い主(メシヤ)です。   2.その出来事に共に関わり、喜ぶ日であること。 今朝礼拝に出ていること自体、私たちは関わりをもっています。そしてあの羊飼いは救い主と出会い、 喜び、神を賛美しました。生き方が変わったのです。 私たちも、救い主イエス・キリストと出会い、そのお方を礼拝し、共にそのお方を賛美しましょう。 夜のキャンドル・サービスでは、最後に恒例のヘンデル作曲の「ハレルヤコーラス」を 聖歌隊が賛美します。

●2017年12月17日(日) 「新しいこと」イザヤ42章1~9節 アドベント(待降節)に入り、救い主イエス・キリストの誕生をお祝いできる喜びを もちましょう。 イザヤ書の預言に「新しい事を、わたしに告げよう。」とあります。 人々の中にはクリスマスを迎えるに際し、体調をくずし、人間関係も最悪、経済的困窮、 さまざまな苦難のなかにいる方がいます。 喜ぶふりをするのではなく、苦難が喜びに変えられること、 それこそ一番のクリスマスの恵みです。 イザヤ書の主のしもべは不信仰なイスラエルの民に向かって語られる方で、 苦難のしもべでもあります。 しかしその中で神の救いを受ける者が起こされる、新しさでもあるのです。 その新しさは、   1.罪の赦しです。 神が人の罪を赦す方であることを知ることは喜びの源です。 神は裁き主ですが、赦す神でもあります。 そこにはイエス・キリストの十字架の贖いがあることを思います。 神は人に息(霊)を与え(5節)、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みがわかるように 霊の心を整えるのです。   2.見守りと正しい導きです。 神が人となり、人の苦難を知りつつも「彼は衰えず、くじけない。」(4節) それゆえに私たちをも励ますことができます。 そして、小さな信仰をもち続ける大切さを知って見守られます。 また「国々の光」となり、正しい道を示し、導くことのできるお方です。 私たちが懲らしめられるのではなく、主のしもべ、イエス・キリストが懲らしめられる (53章)ことを通して示される新しい出来事をみつめるときに、 ハレルヤ、救いの喜びを知るのです。

●2017年12月10日(日) 「戸の外に立っている主」ヨハネ黙示録3章20節 先週よりアドベント(待降節)に入りました。 そして今イエス・キリストの誕生のことを思いめぐらすとき、 この世がこの誕生を受け入れていなく、 「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(マタイ2章7節)のみ言葉のごとく 神の御子の誕生を盛大にお祝いしていないことを思います。 現代のクリスマスはイエス・キリストが中心でなく、 誰をお祝いしているかわからないクリスマスを楽しんでいるのです。 ヨハネの黙示録にラオデキヤの教会のことが書かれています。 そこそこ満たされてはいるが、なまぬるい信仰をもち、本当の豊かさを知らないのが ラオデキヤの教会の信徒たちでした。 イエス・キリストのみ思いを知らずにいたその信徒たちに、   1.戸の外に立ってたたいている主イエス・キリスト その戸は内側からしか開けることができない戸です。 イエス・キリストの方から開けることができないのです。その戸は私たちの心の戸です。 イエス・キリストが戸の外にいるということは、心の中にイエス・キリストがいない状態。 イエス・キリストは私たちの心の戸をたたいているのです。 ラオデキヤの信徒たちや私たちのことを、どうでもいいとは思わないお方。 だからイエス・キリストはたたき続けます。   2.戸を開ければ共に食事し励ます主イエス・キリスト 私たちの心の戸をあけるならイエス・キリストが入って下さり、食事を共にします。 食事を共にするというのはイエス・キリストと深い交わりをするという意味で、 励ましの時、祝福の時、問題の解決の時です。 アドベントの今、頑なな心ではなく、素直に心の戸を開けて主イエスを迎え入れましょう。

●2017年12月3日(日) 「他にメシヤを待つべきか」マタイ11章2~14節 今日よりアドベント(待降節)に入ります。そして今日はアドベント第一主日です。 「おいでになるはずの方は、あなたですか。」(3節) これはバプテスマのヨハネの言葉です。この意味を深く味わいましょう。 バプテスマのヨハネは主イエスの道を備えるために生涯をささげた人でした。 そのことで今、獄に入れられ、死を待つときとなりました。 完全な人はいなく、人はみな弱く、時には信仰が揺らぐことがあります。 バプテスマのヨハネも同様です。彼の問い、そしてイエス・キリストの答えより 私たちの今の信仰を深めていきたいと思います。   1.揺らぐパプテスマのヨハネ パプテスマのヨハネは試練を受け、深刻に危機的問いをしています。 自分が信じてきたことと経験したことにギャツプを感じていたのでしょう。 ナザレのイエスは本当に期待していたメシヤであろうか。 イエス・キリストは無力ではないか。 ヨハネは弟子を通してイエス・キリストに質問するのです。   2.イエス・キリストの答え 主イエスは答えます。「目の見えない・・・貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」(5節) そして「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(6節)と。 イエス・キリストの答えは明確で、 自分がメシヤであり、あなたが待ち望んだ救い主であること、 神の恵みのみ業は進んでいるということでした。 イエス・キリストの弟子パウロの言葉にも 「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(Ⅱコリント12章9節)とあります。 キリスト者にも信仰が揺らぐことがあるかもしれない。 しかし、イエス・キリストは確かに救い主であり、すべての人々のメシヤです。 確信をもってクリスマスを迎えましょう。

●2017年11月19日(日) 「主の救いから生まれる賛美」使徒のはたらき16章16~34節 本日は賛美礼拝で、主イエス・キリストを覚えて賛美をささげます。 本章に厳しい試練や困難の中で賛美をささげた人が登場します。 パウロとシラスです。 かってパウロはキリスト者を迫害した人でした。 しかし主の救いにあずかり賛美する人と変えられたのです。   1.獄中での賛美 パウロとシラスは獄中で祈りと賛美をささげました。 パウロとシラスは罪を犯したのではなく、イエス・キリストを伝え、 悪霊を主の力により取り除いたことで獄に入れられました。 いつ獄から出られるかわからない状態、獄で死ぬかもしれない。 そのような中で祈りと賛美をささげたのです。 そして獄の中で賛美を聞いていた人たちがいました。 囚人たちです。 自分たちは獄に入れられたことで不平不満の中にいたことでしょう。 しかしパウロとシラスの賛美を聞き入っていたのです。(25節)   2.主の働きを起こすことのできる賛美 祈りと賛美の中で大地震が起こり、獄の扉が開かれました。 看守は、囚人たちが逃げ、自分がその責任をとって死刑になるかもしれないと思い、 自害しかけたときに、パウロとシラスが言います。 「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と。 そしてパウロとシラスが信じる神を求め、救いにあずかります。 彼らの家族たちにも主の言葉が伝わり、 イエス・キリストが十字架で死に、三日目によみがえられことが伝えられ、 そして看守とその家族たちが洗礼を受ける奇跡がなされ(33節) 主の救いを受け喜びを得ることができました。 またパウロとシラスも獄から釈放されたのです。 賛美には力があり、主の働きが起きるのです。

●2017年11月12日(日) 「天まで届く塔」創世記11章1~9節 創世記11章には有名なバベルの塔の話があります。 有名になりたい、注目されたい、神のような力を見せつけたいと思い 人間は天まで届く塔を建てたのです。 個人名はありませんが、人間の高慢の罪です。 神の助けなど必要ないと、人間が思ったその結果どうなったのか、 そのことを通して私たちキリスト者も深く学びたい。   1.混乱したこと もとは一つの言葉(1節)で意志が通じて人々は定住していたが、 神は人々の高慢の罪を思い、言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにし、 人々を散らした(6~7節) とあります。それは神の裁きです。 それゆえ人々はばらばらとなり混乱をきたしたのです。 コミュケーションがとれず、争いやもめごとが頻繁になっていったのです。 現代も混乱しています。 なかなか一致できず、争いがやむことがなく、調和ができない社会です。   2.聖霊の働きがあったこと 言葉が乱されたことで人間が生きるのに不便にはなりましたが、 異なる人間の出会い、異なる文化や感情、論理にあって人間存在の深い意味を知ることになります。 全地のおもてに散らされた人々の中からセムの家系は主の祝福を受け継ぐ者たちとなりました。 そしてアブラハムが生まれるのです。神は悪を善に変えることのできるお方です。 主イエス・キリストを十字架につけた者も、主を知り、信じるならば 上から聖霊がくだり、言葉は統一できなかったが、 それぞれ理解できる神の恵みの説教が弟子たちによってなされました。(使徒2章) 弟子たちは自分の名のためでなく、神のみ名を賛美して神のみ業をほめたたえていたのです。

●2017年11月5日(日) 「ノアの失敗」創世記9章20~29節 水曜日の聖書と祈りの集いでは、第一サムエル記を学んでいますが、 そこにはサウルやダビデの失敗も聖書は記しています。 創世記ではあの神と人との前に正しい人、全き人と紹介されたノアも失敗をしました。 私たちは成功話よりも失敗話から学ぶことがあるのではないでしょうか。 ノアの失敗とは、   1.ぶどう酒を飲んで酔ったこと。 ノアは洪水後、ぶどう畑を作りはじめて、その収穫されたぶどうでぶどう酒を作り、 それを飲んで酔ったということ。 その結果、「天幕の中で裸になっていた」とあります。 お酒は人を正しい判断を狂わせ、飲むうちにいつしか酒に飲まれてしまうことがあります。 気をつけたいものです。 教団発行の「信仰生活の指針」では 「麻雀、酒類、たばこ、不自然な薬品、暴飲暴食からは、 私たちが聖霊の宮であり、聖霊の力を受けることにより離れること」を勧めています。   2.息子ハムをのろったこと。 ハムは父の裸をみて、他の兄弟に告げましたが、 セムとヤぺテは着物で父の裸を覆い、隠して、見なかったのです。 本当の愛は人の罪を覆うのです。 罪人は人の罪を告げるのです。 酔いがさめた後、ノアはハムをのろいました。 神が祝福したものをのろうこと、 しかし、祝福ものろいも、本来は神がなされることです。 ノアの怒りがしたことでしょうが、しかし結果的にセムは祝福を受け、 セムの子孫にアブラムが生まれ、救い主イエス・キリストが生まれます。 ハムの子孫は後のカナン人となり、神の民を悩ます民族となります。 私たちはノアのような失敗をしないために、神の豊かな恵みをいつも思い、 私たちのからだが聖霊の宮であることをおぼえ、 御霊によって歩む信仰をもちたいものです。