過去の礼拝メッセージ

2018年5月27日(日)「霊的なもの」創世記25章19~34節

イスラエルの民はアブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神を讃えています。

アブラハム、イサク、ヤコブはそれぞれにロト、イシュマエル、エサウと比較して

霊的なものをもとめ、その賜物を受けています。

しかし、それを軽んじたり、目に見えるもののみを頼り、求めていくと

その霊的なものに目が入らず、結局神の祝福さえも受けず、後悔することになります。

霊的なものは目には見えませんので、求めるにも神への信仰が必要とされます。

 

1.とりなしの祈りを重んじる。(21節)

祈りは霊的なものです。そして神は祈りを聞き、神の祝福を得るのです。

19節以降よりイサクの生涯が中心となりますが、40歳で結婚したラバンの妹である

妻リベカは不妊の女性だったため、イサクは妻のため祈ったのです。

神はそのイサクの祈りを聞かれ、みごもり双子のエサウとヤコブが与えられたのです。

 

2.長子の権を重んじる。(31~33節)

ヤコブとエサウは成長し、兄弟でしたが、性格も仕事も全く違い「エサウは巧みな猟師、

野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。」(27節)

エサウは兄でしたがその長子の権を軽んじ、わずかな食事(レンズ豆の煮物)で

その権利を弟のヤコブに売ったのです。

私たちも信仰によって与えられた聖霊の賜物や神の子としての特権をはかないもので

売らないように、軽んじないように。

ずる賢いところもありますがヤコブのように長子の権を重んじることが大切なのです。

 

2018年5月20日(日)「聖霊に対する信頼」ルカの福音書12章8~12節

主の復活より数えて50日目に聖霊が注がれたことを記念し教会はペンテコステ礼拝

(聖霊降臨日)をもっています。私たちもこの時代の中で主を信じることができ

共に礼拝をささげているのは聖霊の働きが一人一人にあったから。

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

(Ⅰコリント12・3)そして聖霊の注ぎを受けた者は、

 

1.信仰に生きる者(ルカ12・8、使徒1・8)

聖霊を受けた者は主なるイエス・キリストを救い主と信じ生きることができます。

迫害を受けたとしても信仰を守ることのできる力を与えられるのです。

 

2.証をする者(ルカ12・12、使徒1・8)

証とは主が自分になしてくださった体験です。聖霊は私たちに力を与え

信仰と命を支えるのです。そして証をせずにおられなくなるのです。

ある牧師は「雑談するのにも力が必要です」と言われたことがあります。

証をするには力が必要です。最初の人アダムに息を吹きかけたように(創2・7)

私たちにも聖霊を与えて言うべき言葉を示してくださるのです。

 

3.先のことを心配しない者(ルカ12・11、マタイ6・34)

聖霊を受けた者はみな聖霊に対する信頼をもちます。

そしてその者は先のことを心配しない者に変えられます。イエス・キリストは言います。

「あすのための心配は無用です。」(マタイ6・34)

もし先のことを心配しているならば、聖霊を求めて祈ることです。

どんな人にも聖霊が下れば新しくされ、心のうちに平安が与えられます。

 

2018年5月13日(日)「十戒を知る」出エジプト記20章12節

本日は母の日礼拝です。十戒に「あなたの父と母を敬え」とあります。

このみ言葉から教えられたいと思います。

十戒は律法の中の律法で特別な存在です。十戒は大切に契約の箱に保存されていきます。

その十戒の中の第五の戒めが今日の戒めです。

 

1.両親を敬うことの大切さ

十戒には神に対してと人に対しての律法があり、第五の戒めは人に対してです。

特に母の日に際して、母を敬うことが神のみ心です。そこに神の祝福があるというのです。

イエス・キリストも母マリヤを愛し、仕え、十字架上でも思いやる心を持ちました。

(ヨハネ19・26、27)

 

2.両親の権威に従うことの大切さ

父と母を敬うことが十戒にあることはそこに権威があるからです。

エペソ人への手紙6章1節では「主にあって両親に従いなさい。」とあります。

敬うだけでなく、従うこともパウロは求めています。

しかし、ここでは「主にあって」とあり、権威の源はやはり主です。

ですから両親が主に反することやみ言葉に反することを命じるならば服従することは

ないのです。

イエス・キリストは言います。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者

ではありません。」(マタイ10・37)と。

十戒は人間に指摘するだけでなく、正しい道を教えています。そして私たちを常に

イエス・キリストのもとに導くのです。(ガラテヤ3・24)

十戒などの律法を軽んじたり、逆に律法主義者になってはいけませんが人間の考えで

簡単に破ってはいけないものです。

 

2018年5月6日(日)「アブラハムの人生最期の時」創世記25章1~10節

「信仰の父」と呼ばれたアブラハムは175歳まで生き、その生涯を終えました。

彼の生き様は現代の私たちにも多くのことを教えています。

一人の命の尊さ、神を信じて生きる幸いをみます。

 

1.多くの国民の父となるアブラハム(1~6節)

アブラハムはサラの死後、ケトラという女性を妻とし、6人の子どもが与えられます。

先にイシュマエル、イサクの他に。その結婚が神のみこころがどうかわかりませんが、

17章1節の「あなたは多くの国民の父となる」この預言が実現したのです。

しかし、神の祝福の継承を受けるのはただ一人、イサクです。アブラハムの全財産は

イサクに受け継がれるのです。信仰も同じく。

他の子どもたちは贈り物を与え、死後混乱を与えないように配慮しています。

他の子どもたちは東の方へ移り、アラビヤ民族の祖になります。

現代、アラブとイスラエルとの戦いがあることは悲しいこと。

神の御心はいつも平和で神との和解、人との和解です。

 

2.アブラハムの最期(7~10節)

アブラハムは信仰の旅路を歩み、175歳の生涯を地上で歩みます。

「息絶えて死に」(8節)を新共同訳聖書では「満ち足りて死に」とあります。

その言葉には神に満たされた人生を意味します。私たちも信仰の生涯を全うすることを

神は望んでいますし、一度きりの人生後悔をしないで神の豊かな祝福を受け、

満たされた人生を歩みましょう。

そのために自我を捨て、主のみこころを第一とした聖霊に満たされた人生こそ

神の喜ぶ人生です。光の子どもとして輝いた人生を。

 

2018年4月29日(日)「リベカの信仰」創世記24章45~67節

結婚は人生の重要事項で、外面的なものにまどわされ、結婚することの意味も深く考えず

結婚すれば大きな煩いを生みます。

また結婚することで捨てなければいけないものがあることも事実です。

アブラハムのしもべはイサクの嫁探しのため祈り労し、ついに親戚のリベカと

出会いました。

 

1.アブラハムのしもべとリベカとの出会い(45~53節)

よく偶然ということばを使いますが、キリスト者には偶然はなく、

みな必然であり、神を信じる者には神の深い計画があるのです。

そのことを神の導きとして受け取るか、そうでないかで人生が決まるのです。

しもべはその出会いを神の正しい導きとして受け止め、イサクの嫁候補としてみます。

アブラハムの兄弟の家の女性(47)、親切と善意ある女性(45,46)、

美しく純潔な女性(16)などから確信したのです。

 

2.リベカの信仰から来る決心(54~67節)

リベカはまだ会ったこともないイサクの妻になることを決心します。

そして期間もとらず、乳母とともにアブラハムのところへ行くのです。

そこにはしもべの主人アブラハムに対する忠誠、そしてイサクが大切な人であること。

また自分の父がアブラハムの甥であること、神が道を開いておられることを思い、

信仰をもって決心をしたのです。

信仰者は神の招きに従い旅立つ者です。まさにアブラハムと同様「どこに行くのか

知らないで」嫁いで行くリベカの姿がそこにあります。(へブル11・8)

そしてイサクはリベカと出会い、結婚し、母の死後、慰めをリベカから受けるのです。

(67)

 

2018年4月22日(日)「信頼と委託」創世記24章1~27節

23章でアブラハムの妻サラが死に、埋葬されたことが記され24章はイサクの嫁探し。

埋葬と結婚は人生の最も重要な事柄でお葬式と結婚はこれをなすことで

人は世代交代をします。アブラハムにとってイサクの嫁探しは重要なこと。

偶像の神々を信じている地域に拠点をおいていたので、

信仰の継承のためには重要なことだったのです。

 

1.大切な役目を受けた年寄りのしもべ(1~9節)

アブラハムからイサクの嫁探しを一族の住む故郷から選ぶように託されたのは

年寄りのしもべで、そのしもべを信頼したアブラハム。

まさにイエス・キリストと私たちとの関係に似ています。

イエス・キリストは大切な使命を私たちに委ねています。

タラントのたとえがそうです。「たくさんの物を任せよう」と信頼して

任せています。(マタイ25・14~30)

 

2.しもべの計画と祈り(10~27節)

使命の大切さを知るしもべは自分の経験だけに頼らず、神に祈ります。

そしてイサクの相手に優しさといたわりを求めます。

夫婦に大切なことは同じ価値観をもつこと、

そして妻は夫を支える優しい気持ちが必要。(創2・18、24)

アブラハムは旅人をもてなすことを重要なこととし、その姿を見ていたしもべ。

自分に水を汲む、またそばにいるらくだにも。

そのように故郷の一族の中から優しい、思いやりの人を求めた。

女性に限らず男性も御霊の実は「愛、・・親切、善意」(ガラ5・22)があり、

現代のクリスチャンも、自分の自我を十字架につけ御霊の実を結ぶように

求められています。

 

2018年4月15日(日)「主の山に備えあり」創世記22章1~14節

アブラハムは不信仰のなか、約束の子のイサクが与えられました。

まさにアブラハムの信じた神は全能の神であることを再確認できたのです。

そのアブラハムに神は愛するひとり子イサクをささげることを命令されたのです。

ここで教えられることは、

 

1.理解しがたい神が与えた試練(2節)

まさに理解できない神の試練をアブラハムは受けます。

そして、それを実行するためにモリヤの山にイサクを連れていったのです。

 

2.アブラハムの信仰による従順(3節~10節)

アブラハムはひとり子をささげる神の命令に従順に従いました。

それは神への信頼からくる従順です。

イエス・キリストもおのれを低くし、死に至るまで父なる神に従順でした。

(ピリピ2・8)まさにアブラハムは従順な者だったのです。

 

3.アブラハムの復活信仰(へブル11章17~19節)

へブル人への手紙11章17~19節を読むとき、アブラハムが、

死からよみがえる復活信仰をもっていたからイサクを取り戻したと記されています。

それゆえ愛するイサクを犠牲にすることができたのです。

しかし、イサクは死ぬことがなく、代わりにモリヤの山にいた雄羊が燔祭として

ささげられました。まさに主の山に備えありでした。

私たちの救いのためには、主なるイエス・キリストは十字架上で犠牲の死を

なしとげられました。つまり父なる神は愛するひとり子を惜しまずささげたのです。

(ヨハネ3・16)それは多くの私たち罪人の救いのためです。

 

2018年4月8日(日)「皮袋の水は尽きる」創世記21章1~21節

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12・13)

悲しむ者と共に悲しむことができても、喜ぶ者と共に喜ぶことは

なかなかできないものです。

人の幸福を喜べないそんな人間の弱さを思います。

アブラハムとサラとの間に待望の子どもイサクが与えられます。神の奇跡の業です。

しかしそのことでまた別の問題が起こります。

サラとハガルとの間、イサクとイシュマイルとの間に。

イサクが成長したとき、イサクがイシュマエルにからかわれます。

それをみたサラが気分を害するのです。

 

1.子の罪は親のせいか?(8.9節)

子の犯した罪は親のせいなのか?そんなことを考えます。

しかし、子は親から学ぶこともあります。

ハガルがかつてはサラの女奴隷の身だったのに、サラを見下したこと。

その母に対して子のイシュマエルのした行為はやはり妬みの罪です。

罪の報いは必ずあること。そのことを聖書は伝えています。

 

2.ハガルとその子の二回目の荒野追放(14~19節)

ハガルとイシュマエルは荒野に追放されます。

そのことを神は許しているかのように。アブラハムは前回と違い、少しの優しさとして

パンと皮袋に水をもたせます。しかし、その皮袋の水は尽きたのです。

絶体絶命の危機です。神は神に寄り頼むものを顧みられます。

自分に頼らず、人に頼らず、神のみ信頼するものを神は助けます。

イエス・キリストが十字架で死を経験し、復活されたように。

自分に死ぬ経験がキリスト者には、必要です。

神は少年イシュマエルの声を聞かれたのです。

 

2018年4月1日(日)「死に勝利し、復活されたイエス」マルコ16章1~20節

本日はイースター(復活祭)の記念すべき良き日です。

イースターおめでとうございます。本日この聖書箇所よりイースターメッセージを

とりつぎます。イースターでの出来事は、

 

1.驚くべき歴史的事実(1~7節)

イエス・キリストの十字架、そして3日目によみがえられた復活は歴史的事実です。

これは誰にもくつがえされることはできません。

イースターの事実こそ、キリスト教が今日まで存在し、教会も存在し続けている

ゆえんです。

 

2.人間が簡単に信じられない出来事(8~14節)

この復活は弟子たちやそばにいた女性たちも信じられないほどで、

空(から)の墓も見ても信じられない女性たちがいました。

主の復活は人間が簡単に信じられない出来事であることを示しています。

 

3.信じる者に喜びと希望を与える出来事(15~20節)

人間が容易に信じられない出来事、この復活を信じた者は、

悲しみから喜びに、絶望から希望へと導かれます。

そして信じた者たちが復活の証人として命がけで人々に伝えてゆくのです。

死が終わりではなく、天国が存在し、

十字架で無力で敗北者のような姿を見せたイエス・キリストが

復活により勝利者としての姿と変えられます。

私たちの罪のために死なれたイエス・キリストは、私たちを共によみがえらせる恵みを

与えました(エペソ2・6)。死は天国への入り口です。

イエス・キリストを信じるとき、救いの喜びと、永遠の命の希望をもつのです。

 

2018年3月25日(日)「わが神よ、あなたはなぜ」マタイ27章22~50節

エルサレムに入られたイエス・キリストは多くの群集の歓迎にあったが、

一変してイエス・キリストは捕えられ、鞭打たれ、

エルサレムの門の近くのゴルゴダの丘で十字架に架けられたのです。

その十字架は、

 

1.歴史的事実としての十字架

マタイだけでなく、他の福音書もイエス・キリストの十字架が記されています。

そして弟子たちも十字架に架けられたイエス・キリストを大胆に伝えていったのです。

十字架はまぎれもなく歴史的事実です。

 

2.理不尽な十字架

イエス・キリストは神の御子でありながら

理不尽な刑として十字架を受けられました。

そこにはイザヤが預言したとおり苦難の十字架。(53章)

イエス・キリストは世の理不尽さを身に受けました。

私たちも「わが神よ、なぜ」という問いをする者です。

理不尽な扱いを受け、苦しむこともあります。

イエス・キリストはそのことも体験されたのです。

「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

(へブル4・15)それゆえ私たちに同情でき、救うことができるのです。

 

3.すべての人の罪を背負う十字架

イエス・キリストは最後まで罪を犯さず、苦しみを受けて叫び、

その叫びは捨てられるはずのない御子がすべての人の罪を背負い

神の裁きを受けた証です。

イエス・キリストが十字架を拒否し架からなかったとしたら、

神の裁きが下り、全人類は滅びてしまったことでしょう。

イエス・キリストの十字架によって私たちの罪は赦され、

永遠の命を得ることが出来たのです。

 

2018年3月18日(日)「手でつかんで救う神」創世記19章1~26節

聖書の神は愛なる神と同時に義なる神で、

 

1.悪を裁かれる神

18章でソドムとゴモラの人々の罪のゆえ町が滅ぶことを

神の友であるアブラハムには教えられていたをみましたが、

そのことが現実に起きたことのです。

義なる神は悪をそのままにはなさらないのです。

「罪からくる報酬は死です」(ローマ6・23)という言葉は真理です。

人は自分の都合の良い神をつくりだし、自分の罪をもあいまいにしやすいのです。

ソドムゴモラの人々は以前から「ソドムの人々はよこしまな者で、

主に対しては非常な罪人であった。」(13・13)

そして今性的にも堕落して、不道徳が若者から老人まで広がってきたのです。

(19・4,5)

そしておとぎ話のようですが歴史的に実際に起きた事件なのです。

神は天から硫黄の火を降らせ、ソドムとゴモラを滅ぼしました。

 

2.祈りを聞かれる神

アブラハムのとりなしの祈りで甥ロトを救う道を神は用意されました。

ロトはソドムの町から離れず、罪の誘惑に負けていた者でした。

そして影響を受けていました。

妻はそれを慕う心をもち塩の柱になりました。

 

3.義人ロトを救う神(Ⅱペテロ2・7)

ペテロの手紙第二ではロトを義人ロトとしています。

最後までためらうロトに主の使いはロトそしてその妻、その娘の手をつかみ、

救おうとしたのです。(16)神のあわれみです。

私たちキリスト者の救いもみな神の憐れみがあり、

ただ恵みにより救われているのです。そして義と認められるです。

(エペソ2・4.5)

 

2018年3月11日(日)「神との駆け引き」創世記18章23~33節

神との駆け引き(交渉)とは本来良いことなのか、恐れおおいことではないか。

しかしアブラハムは創世記18章後半でしている。

そのことを神の赦しのなかで行われていた。

アブラムハムは神の友であり、隠されていたことも教えている。

私たちも隠されている奥義が聖書により明らかにされ信仰をもっているのです。

 

1.神の友アブラハム

ソドムとゴモラの人々が罪のゆえ町が滅ぶことをアブラハムには教えられていた。

私たちも神の友ゆえ、奥義を知る者とされている。

十字架の奥義、神の国の奥義など

それゆえ大胆な信仰をもち続ける力となっていくのです。

 

2.アブラハムの熱心なとりなしの祈り

神との駆け引きでもあるがとりなしの祈りです。

その祈りは甥のロトに対する愛の祈りです。

自己愛ではない他者への愛から来たものです。

そして神への信頼による祈りです。祈りは神への信頼なくしてできません。

必ず祈りを受け止めてくださる方だと信じて祈るからです。

これが神への信頼です。

そしてかつて「ひれ伏し、そして笑った」(17・17)アブラハムが

「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。」

と祈ります。

神へのとりなしの祈りはまた謙遜な者しかできません。

神は祈りを聞き、ロトとその家族を救うことを引き受けるのです。

ソドムゴモラから離れないロト、その家族にも問題がありますが、

神は祈りを聞かれるお方。

そしてキリスト者は祭司の仕事をも与えられています。

とりなしの祈り手になりましょう。

 

2018年3月4日(日)「ひれ伏して、笑った」創世記17章15~25節

アブラムが99才の時、再び神の言葉が臨んだ。そして、アブラムは神と契約を結び、

名前も新しい名前アブラハムを頂くアブラムでしたが、神の約束の言葉を素直に聞いていますが、

すべてを信じることができませんでした。信仰の父と呼ばれるアブラハムでしたが、信じられず、

 

1.ひれ伏して、笑ったアブラハム

「ひれ伏して、笑った」とは興味深い言葉です。神にひれ伏す態度を示しながらも、

神の約束を信じられず、笑ってしまうアブラハムがそこにいます。

不信仰の笑いです。後には妻のサラも笑います。

私たちキリスト者は神のみ言葉を土台として日々養われ、支えられ、強められる者として歩みたいです。

イエス・キリストはこのように言います。

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

(マルコ13・31)

私たちは不信仰に傾きそうになる自分をいつも信仰の方向へしっかりと身体を向け、

み言葉を土台にすること。そのことが重要です。

 

2.アブラハムを見捨てない神

アブラハムは、不信仰で笑い、神の約束を自分の解釈でまだ誕生しないイサクでなく、

イシュマエルを跡継ぎにすることを思うのです。

しかし、神の選びは変わらず、アブラハムを選んだ神はこれからもアブラハムを導き続けるのです。

神の忍耐がそこにあります。私たちキリスト者にも同じです。

忍耐と励ましの神が私たちの神で、どんなときでも導いておられるのです。(ローマ15・5)

 

2018年2月25日(日)「アブラムとの契約と割礼」創世記17章1~27節

アブラムが99才の時、再び神のことばが臨んだ。そして、

 

1.神と契約を結ぶアブラム(1~4節、6節)

神の一方的な恵みにより契約を結ぶことになるアブラムでした。

15章においては信仰により神から義と認められたことも神の選びと恵みのみ業です。

行いによるものではなく、信仰による義だからです。

そして神との契約です。私たちにも救い主イエス・キリストを信じる信仰により義と認められ、

信仰により神の子の特権をもつことができるのです。(ヨハネ1・12、ローマ4・24)

 

2.名を新しく頂くアブラム(5節)

神はアブラムに新しい名を与えた。アブラハムです。

神が名を与えられるというのは、神がそうしてくださると

新しく造りかえられる者として導かれることを意味します。

アブラハムの名の意味は「多くの国民の父」です。

まだアブラハムと妻サライには子がありませんが、

神は後にイサク、イサクの子にヤコブが与えられ、イスラエル民族の祖先となるのです。

私たちも古い人のままでなく、新しい人を身に着るべきです。(エペソ4・24)

 

3.割礼を受けるアブラム(23~17節)

割礼とは男性の体に傷をつけることですが、これは神との契約のしるしであります。

しかし形だけ契約を守っていても中身がともなわないと意味がありません。

預言者エレミヤは「心に割礼を受けよ」と言われました。(エレミヤ9・26)

私たちも心から悔いて砕かれた魂で痛みをも覚えつつも

全能なる神に素直に降伏し、従う者となりましょう。

 

2018年2月18日(日)「全き者となりなさい」創世記17章1~6節

1.沈黙の後の神の現れ(1節)

16章において神の言葉はアブラムに臨みませんでした。

女奴隷ハガルには主の使いを通して神の介入はありましたが、神の沈黙。

それはアブラムの不信仰、不従順の結果だと思われます。

イシュマエルの誕生後、99歳までに13年が経っています。

 

2.全き者であれ(1~2節)

アブラムが99歳の時、再び神が現れ、神の言葉が臨みます。

その時、アブラムに神への思い、祈りが芽生えたのかもしれません。

「わたしは全能の神である。・・・全き者であれ」と言われます。

また後にはすべてのイスラエル人にもそのことを求めます。(申18・13)

神のみ心は全き者であること。それは人間の努力や徳ではとうていできないこと。

そのためには神のみ前に歩み、罪が示されたら悔い改めることです。

そして信仰による義を受けることです。(創15・6)

 

3.祝福の約束(4~6節)

アブラムはここでも神の祝福の約束を受けます。神の選びとしかいえないことです。

そのためには神のみ前に歩み、全き者となる必要がいります。

私たちも神の選びの中にあること、祝福を受ける者であり、

そのために神のみ前に生き、全き者となることを願い望むことです。

私たちは罪人であってもイエス・キリストの十字架の血による聖め、聖霊による聖めを頂き、

信仰による新生、義認、聖化の恵みを受け、全き者となることができるのです。

「恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1・16)と。

イエス・キリストによる恵みを受けましょう。

 

2018年2月11日(日)「ご覧になる神」創世記16章1~16節 ペテロの手紙第一5章7節

1.アブラム家族の危機(2~5節)

アブラムの妻サライは神の約束を信ぜず、女奴隷を代理妻とし、

産んだ子の母になる計画をもち、アブラムに提案します。

しかし、その提案をアブラムは受け入れます。

アブラムの不信仰の行為です。その結果、子どもを身ごもりますが、

女奴隷ハガルは女主人サライを見下げるようになり、サライは傷つくこととなり、

自分の責任の転嫁を夫であるアブラムにします。(5)

 

2.無責任なアブラム(6節)

アブラムは「彼女をあなたの好きなようにしなさい」と妻サライの好きにさせるのです。

あまりにも無責任なアブラム。そのことでサライはみごもっているハガルを虐待するのです。

現代にも起こりうること、被害者が虐待者になることを教えているように、

その結果ハガルはサライから離れ、家を出ることになります。

 

3.神の介入(8~13節)

しかし、荒野にいたアブラムの子をみごもっていたハガルに主の使いがあらわれ、

家にもどるように指示を受けます。

そしてその子は男の子で名をイシュマエルとつけること、あなたの子孫を増やす」と言われたのです。

ハガルも主のみ名を呼び、「あなたはエル、ロイ」と言います。

「私を顧みられる神」という意味です。

私たちも気の毒な立場に立たされている時があります。損な人生を送っていると嘆くこともあります。

神は苦しみの祈りを聞かれる神であり、謙遜に生きるなら神は私たちのことを目を留めて下さるのです。

(詩8・4、Ⅰペテロ5・7)

私たちの神はご覧になる神なのです。そのような経験をもって感謝できる信仰者になりたいものです。

 

●2017年2月4日(日) 「アブラムの祝福(信仰による義)」創世記15章1~6節

アブラムがゲドルラオメルの連合軍を打ち破り、ロトとその家族を救った後に

主はみ声をかけられるのです。

「あなたの受ける報いは非常に大きい。」(1節)と。

しかしそれを全部受け入れることができないでいるアブラムがそこにいました。

「信仰の父」と呼ばれたアブラムでしたが、

さまざまな経験を通して成長していくのです。

しかし、本章でもアブラムから私たちは多くのことを学びます。

 

1.本音でぶつかるアブラム(2~3節)

抑えてきた感情を主にぶつけます。

自分にはまだ子どもがなく、だんだんと年をとってきていたからです。

「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。」(2節)と

本音でぶつかるアブラムがそこにいます。

 

2.空の星を見上げるアブラム(5~6節)

「さあ、天を見上げなさい。」と。アブラムは空を仰ぎ、星を見たのです。

そこには無数の星があり、アブラムは励まされたのです。

 

3.義と認められたアブラム(6節)

この主とアブラムとの関係を通して、

私たちはもっと主に期待を置き、信じることの大切さを教えられるのです。

人間は目に見えるもののみ信じる者ですが、

信仰者はイエス・キリストの弟子トマスにいわれた言葉をいつも思うことです。

「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20章29節)

アブラムはまだイサクが生まれていないそのとき

「あなたの子孫はこのようになる。」との主の言葉を信じる信仰により

義と認められたのです。

行いによる信仰義認でなく、信仰により。(ローマ4章2~3節)

 

●2017年1月28日(日) 「新しい人アブラム」創世記14章1~24節

前回はアブラムの祭壇の生涯をみました。

それゆえ神はアブラムを祝福し、新しい人アブラムへと導きます。

人は新しく変わることができるのです。そのことをアブラムから学びます。

 

1.勇敢なアブラム(14~16節)

アブラムと別れてソドムにいるロトのために

いのちをかけて救おうとする姿があります。

「兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3章16節)のみ言葉を思います。

アブラムだけでなく318人のしもべたちも、戦いの経験もないのに勇敢に戦います。

主人アブラムから愛され、またアブラムを信頼していたからです。

 

2.愛があるアブラム(14~16節)

アブラムは、しもべたちを愛し、そしておいのロトを愛する愛。

かつて自分の妻さえ妹と偽り嘘、夫婦の危機をもたらしたアブラムでしたが

今は変えられていたのです。

祭壇それは礼拝で、礼拝のなかで聖霊を受けて、新しく造られた者とされるのです。

(Ⅱコリント5章17節)

 

3.祝福を受けるアブラム(18~20節)

祭司メルキゼデクよりアブラムは祝福を受けます。

毎週の礼拝の中でも牧師より祝祷を受けます。

新しく造られた者は神の祝福を受け、祝福の基とされます。

そして感謝し、メルキゼデクに十分の一をささげます。

十分の一献金の最初の聖書の記述です。

キリスト者は月定献金をささげることが大事です。

そして聖書には十分の一をささげるよう示しています。

(マラキ3章10節、マタイ23章23節)

献金はさらにキリスト者が経済的にも神の祝福を受ける道とし

定められているのです。

 

●2017年1月21日(日) 「祭壇の生涯」創世記13章1~18節

前回はアブラムの失敗と挫折の所を学びました。

人間は成功よりも失敗から多くのことを学ぶものです。

 

1.信仰に立つアブラム

アブラムは過去の失敗と神のあわれみを体験し、そこから学び、13章で信仰に立ちます。

彼はエジプトを出て、べテルとアイの間にとどまり、

神に以前祈った場所で信仰の原点に立ち返ります。

 

2.問題を抱えるアブラム

アブラムはそこで問題を抱えます、所有物と財産そして食糧問題です。

そしてアブラムはおいのロトと共に生きることができなくなってきたのです。

 

3.神に信頼するアブラム

土地を優先する権利は自分にあるにもかかわらず、

アブラムはおいロトに選択権を先に与えます。

そのことは神に対する信頼から来るものです。アブラムは霊の人、ロトは肉の人。

ロトはおじアブラムのその指示を受け入れ、自分の欲で先に土地を選んだのです。

ヨルダンの低地は緑が豊かで牧畜には適している場所です。

ロトは見えるものにより判断し、見えない神を信頼するものではなかったのです。

アブラムは神が示す地を選び、そこで祭壇を築きます。(18節)

祭壇を築く行為は現代では神への礼拝の姿勢の表現です。

私達も礼拝の祭壇、そして水曜日の聖書と祈りの集いや早天祈祷会にも参加し、

また朝早く一人で家で祈りの祭壇を築きましょう。

私たちは一年に52回聖日礼拝があります。

新約においても旧約においても私たちの原点は「礼拝の民」です。

一人一人祭壇の生涯を送りましょう。神の祝福の民としての自覚をもって。

 

●2017年1月14日(日) 「失敗と挫折を超えて導く神」創世記12章10~20節

本日より再び創世記より講解説教をします。

前回はアブラハムが旅立った記事を取り上げました。

主の祝福の約束を信じ、新しい地に踏み出したのです。しかしそこでは大きな困難がありました。

一つは飢饉、そしてもう一つは大国エジプトの国の人々からの脅威に会うことです。

そのことで神に不満を訴えたかもしれません。ここから3つのことを学びます。

 

1.失敗するアブラハム(13節)

アブラハムは飢饉に会い、自分たちの身を守るためどう生きるかと悩んだと思います。

その結果、大きな罪を犯します。

妻サラが美しいため、エジプト人はサラを欲しがり自分を殺そうとするだろうと、

自分の妹であると嘘をつくのです。

このことは倫理的に赦せないことですが、信仰的にも赦せないことをしたのです。

それは、妻サラに姦淫の罪を犯させることであり、神の約束を無視したことでした。

 

2.挫折するアブラハム

アブラハムは罪を犯したことに気がつき、深い挫折感・絶望感をもつようになります。

人間への恐れと、愛する妻との別れのなかで。

 

3.神の守りと導きを受けるアブラハム

妻サライのことでパロと宮廷に災害を与えましたが、二人は危機から守られました。

ただ、「あなたは・・何ということをしたのか。」と神は言われます。

かつて神は、エバに対して同じ言葉を言っています。(3章13節)

罪を認めることで救いが始まるのです。

神はときに異邦人をも用いてまで教え、救い出してくださるお方です。

約束されたことを実現しようとする真実な神です。(Ⅱテモテ2章13節)

 

●2017年1月7日(日) 「礼拝に生きる年」コロサイ3章16節

毎年新年礼拝においては教会標語と聖言から説教しています。

2018年度は4月からですが、標語「礼拝に生きる年」

聖言はコロサイへの手紙3章16節です。

信仰者は礼拝に生きる者であり、礼拝において成長していくものです。

そこには幸いな主にある交わりがあるからです。

義務ではなく、恵みとして日曜日、礼拝をささげて神の豊かな祝福の道を

2018年度も歩みましょう。

 

1.恵みとしての礼拝

十戒に確かに「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とありますが、義務として

日曜日礼拝を守るのではなく、恵みとしての礼拝でなければ続きません。

イエス・キリストはサマリヤ人の女性を罪から救っただけで満足されないで

礼拝のことを告げました。

「神は霊ですから、・・霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

(ヨハネ4章24節)と。

罪人を救いに導き、礼拝の民とされたのです。そこに大いなる神の恵みがあります。

 

2.御言葉で養われる礼拝

礼拝の中で重要なものに聖書朗読と説教があります。そこでは御言葉が伝えられます。

コロサイ3章16節には「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせ」とあります。

聞くことから始まり、その御言葉より養われて、信仰者は成長するのです。

 

3.賛美と感謝にあふれた礼拝

当時初代教会は「詩と賛歌と霊の歌」をもって賛美の礼拝がもたれました。

古くからの賛美歌も新しい賛美も大切で神をほめたたえること。

そして、感謝にあふれた礼拝をもつことが大切なのです。

 

●2017年12月31日(日) 「神の守り」マタイ2章12~23節

今年最後の礼拝です。まだクリスマス礼拝の余韻がある時期です。

今日の聖書箇所では、東方の博士たちが別の道を通り自分の国へ帰って行ったこと、

ヨセフ、マリヤとイエスがエジプトへ逃避し、帰国したことが記されています。

そこに神の守りがあったこと、神を信じる者を神は共にいて守って下さいます。

そのことを確信しましょう。

 

1.東方の博士たちの守り

博士たちは夢で「ヘロデのところに戻るな」(12節)とみ告げを受けました。

そのままヘロデのところへ行けば、イエスのいる場所が示され、殺されていたでしょう。

イエスの守りと博士たちの守りがあったのです。

また「別の道」(12節)とは象徴的です。

今までと違う道であり、神の守りの道です。試練の中にも「脱出の道」を用意する神です。

(Ⅰコリント10章13節)

 

2.聖家族の守り

神は主の使いを通してヨセフに語りかけ、夢で、危機が迫っていることと、

すぐにエジプトへ逃げることを示されました。

そんな理不尽なこともマタイは預言の成就だと言います。

「わたしの子をエジプトから呼び出した。」(ホセア11章1節)

これも神の御手の中で起きたことで、預言の成就、そしてメシヤの証であり、聖家族の命が

守られました。

 

3.信仰者たちの守り

信仰者は、すべての出来事が神の御手の中にあることを、現実としてみる者であり、

そのことが必要です。

そして試練の時も私たちの神はインマヌエルの神であることを忘れてはいけない。

現実逃避でなく、日々神の導きと守りがあることを信じていきましょう。

 

●2017年12月24日(日) 「クリスマスの日、あなたは」ルカ2章8~20節

クリスマスおめでとうございます。

礼拝のなかで、共 に救い主イエス・キリストの誕生をお祝いできる喜びをもてますことに感謝です。

そして、今年のクリスマスはお互いに特別な日となれますように。

クリスマスを知らない人はいないでしょう。しかし、誰を、何のためにお祝いしているのか

わからないでいる人が多いことでしょう。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日です。

私たちは今、聖書のみ言葉を通してそのことを確認しましょう。

 

1.神が人となられた日であること。

羊飼いに主の御使いより託されたメッセージは、ダビデの町(ベツレヘム)であなたがたのために救い主が

お生まれになったことでした。

神が人となられた日、羊飼いはその場所に行って、その事実を確認します。

私たちも、私たちのために、神であられる方が人となられた事実を受け止め、共に喜び合いましょう。

救い主は空想の存在でもなく、私たちと関わりのない方ではありません。

私たちに不幸、悲しみ、苦しみの根源である罪からの救いを与えるお方、救い主(メシヤ)です。

 

2.その出来事に共に関わり、喜ぶ日であること。

今朝礼拝に出ていること自体、私たちは関わりをもっています。そしてあの羊飼いは救い主と出会い、

喜び、神を賛美しました。生き方が変わったのです。

私たちも、救い主イエス・キリストと出会い、そのお方を礼拝し、共にそのお方を賛美しましょう。

夜のキャンドル・サービスでは、最後に恒例のヘンデル作曲の「ハレルヤコーラス」を

聖歌隊が賛美します。

 

●2017年12月17日(日) 「新しいこと」イザヤ42章1~9節

アドベント(待降節)に入り、救い主イエス・キリストの誕生をお祝いできる喜びを

もちましょう。

イザヤ書の預言に「新しい事を、わたしに告げよう。」とあります。

人々の中にはクリスマスを迎えるに際し、体調をくずし、人間関係も最悪、経済的困窮、

さまざまな苦難のなかにいる方がいます。

喜ぶふりをするのではなく、苦難が喜びに変えられること、

それこそ一番のクリスマスの恵みです。

イザヤ書の主のしもべは不信仰なイスラエルの民に向かって語られる方で、

苦難のしもべでもあります。

しかしその中で神の救いを受ける者が起こされる、新しさでもあるのです。

その新しさは、

 

1.罪の赦しです。

神が人の罪を赦す方であることを知ることは喜びの源です。

神は裁き主ですが、赦す神でもあります。

そこにはイエス・キリストの十字架の贖いがあることを思います。

神は人に息(霊)を与え(5節)、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みがわかるように

霊の心を整えるのです。

 

2.見守りと正しい導きです。

神が人となり、人の苦難を知りつつも「彼は衰えず、くじけない。」(4節)

それゆえに私たちをも励ますことができます。

そして、小さな信仰をもち続ける大切さを知って見守られます。

また「国々の光」となり、正しい道を示し、導くことのできるお方です。

私たちが懲らしめられるのではなく、主のしもべ、イエス・キリストが懲らしめられる

(53章)ことを通して示される新しい出来事をみつめるときに、

ハレルヤ、救いの喜びを知るのです。

 

●2017年12月10日(日) 「戸の外に立っている主」ヨハネ黙示録3章20節

先週よりアドベント(待降節)に入りました。

そして今イエス・キリストの誕生のことを思いめぐらすとき、

この世がこの誕生を受け入れていなく、

「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(マタイ2章7節)のみ言葉のごとく

神の御子の誕生を盛大にお祝いしていないことを思います。

現代のクリスマスはイエス・キリストが中心でなく、

誰をお祝いしているかわからないクリスマスを楽しんでいるのです。

ヨハネの黙示録にラオデキヤの教会のことが書かれています。

そこそこ満たされてはいるが、なまぬるい信仰をもち、本当の豊かさを知らないのが

ラオデキヤの教会の信徒たちでした。

イエス・キリストのみ思いを知らずにいたその信徒たちに、

 

1.戸の外に立ってたたいている主イエス・キリスト

その戸は内側からしか開けることができない戸です。

イエス・キリストの方から開けることができないのです。その戸は私たちの心の戸です。

イエス・キリストが戸の外にいるということは、心の中にイエス・キリストがいない状態。

イエス・キリストは私たちの心の戸をたたいているのです。

ラオデキヤの信徒たちや私たちのことを、どうでもいいとは思わないお方。

だからイエス・キリストはたたき続けます。

 

2.戸を開ければ共に食事し励ます主イエス・キリスト

私たちの心の戸をあけるならイエス・キリストが入って下さり、食事を共にします。

食事を共にするというのはイエス・キリストと深い交わりをするという意味で、

励ましの時、祝福の時、問題の解決の時です。

アドベントの今、頑なな心ではなく、素直に心の戸を開けて主イエスを迎え入れましょう。

 

●2017年12月3日(日) 「他にメシヤを待つべきか」マタイ11章2~14節

今日よりアドベント(待降節)に入ります。そして今日はアドベント第一主日です。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。」(3節)

これはバプテスマのヨハネの言葉です。この意味を深く味わいましょう。

バプテスマのヨハネは主イエスの道を備えるために生涯をささげた人でした。

そのことで今、獄に入れられ、死を待つときとなりました。

完全な人はいなく、人はみな弱く、時には信仰が揺らぐことがあります。

バプテスマのヨハネも同様です。彼の問い、そしてイエス・キリストの答えより

私たちの今の信仰を深めていきたいと思います。

 

1.揺らぐパプテスマのヨハネ

パプテスマのヨハネは試練を受け、深刻に危機的問いをしています。

自分が信じてきたことと経験したことにギャツプを感じていたのでしょう。

ナザレのイエスは本当に期待していたメシヤであろうか。

イエス・キリストは無力ではないか。

ヨハネは弟子を通してイエス・キリストに質問するのです。

 

2.イエス・キリストの答え

主イエスは答えます。「目の見えない・・・貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」(5節)

そして「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(6節)と。

イエス・キリストの答えは明確で、

自分がメシヤであり、あなたが待ち望んだ救い主であること、

神の恵みのみ業は進んでいるということでした。

イエス・キリストの弟子パウロの言葉にも

「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(Ⅱコリント12章9節)とあります。

キリスト者にも信仰が揺らぐことがあるかもしれない。

しかし、イエス・キリストは確かに救い主であり、すべての人々のメシヤです。

確信をもってクリスマスを迎えましょう。

 

●2017年11月19日(日) 「主の救いから生まれる賛美」使徒のはたらき16章16~34節

本日は賛美礼拝で、主イエス・キリストを覚えて賛美をささげます。

本章に厳しい試練や困難の中で賛美をささげた人が登場します。

パウロとシラスです。

かってパウロはキリスト者を迫害した人でした。

しかし主の救いにあずかり賛美する人と変えられたのです。

 

1.獄中での賛美

パウロとシラスは獄中で祈りと賛美をささげました。

パウロとシラスは罪を犯したのではなく、イエス・キリストを伝え、

悪霊を主の力により取り除いたことで獄に入れられました。

いつ獄から出られるかわからない状態、獄で死ぬかもしれない。

そのような中で祈りと賛美をささげたのです。

そして獄の中で賛美を聞いていた人たちがいました。

囚人たちです。

自分たちは獄に入れられたことで不平不満の中にいたことでしょう。

しかしパウロとシラスの賛美を聞き入っていたのです。(25節)

 

2.主の働きを起こすことのできる賛美

祈りと賛美の中で大地震が起こり、獄の扉が開かれました。

看守は、囚人たちが逃げ、自分がその責任をとって死刑になるかもしれないと思い、

自害しかけたときに、パウロとシラスが言います。

「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と。

そしてパウロとシラスが信じる神を求め、救いにあずかります。

彼らの家族たちにも主の言葉が伝わり、

イエス・キリストが十字架で死に、三日目によみがえられことが伝えられ、

そして看守とその家族たちが洗礼を受ける奇跡がなされ(33節)

主の救いを受け喜びを得ることができました。

またパウロとシラスも獄から釈放されたのです。

賛美には力があり、主の働きが起きるのです。

 

●2017年11月12日(日) 「天まで届く塔」創世記11章1~9節

創世記11章には有名なバベルの塔の話があります。

有名になりたい、注目されたい、神のような力を見せつけたいと思い

人間は天まで届く塔を建てたのです。

個人名はありませんが、人間の高慢の罪です。

神の助けなど必要ないと、人間が思ったその結果どうなったのか、

そのことを通して私たちキリスト者も深く学びたい。

 

1.混乱したこと

もとは一つの言葉(1節)で意志が通じて人々は定住していたが、

神は人々の高慢の罪を思い、言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにし、

人々を散らした(6~7節) とあります。それは神の裁きです。

それゆえ人々はばらばらとなり混乱をきたしたのです。

コミュケーションがとれず、争いやもめごとが頻繁になっていったのです。

現代も混乱しています。

なかなか一致できず、争いがやむことがなく、調和ができない社会です。

 

2.聖霊の働きがあったこと

言葉が乱されたことで人間が生きるのに不便にはなりましたが、

異なる人間の出会い、異なる文化や感情、論理にあって人間存在の深い意味を知ることになります。

全地のおもてに散らされた人々の中からセムの家系は主の祝福を受け継ぐ者たちとなりました。

そしてアブラハムが生まれるのです。神は悪を善に変えることのできるお方です。

主イエス・キリストを十字架につけた者も、主を知り、信じるならば

上から聖霊がくだり、言葉は統一できなかったが、

それぞれ理解できる神の恵みの説教が弟子たちによってなされました。(使徒2章)

弟子たちは自分の名のためでなく、神のみ名を賛美して神のみ業をほめたたえていたのです。

 

●2017年11月5日(日) 「ノアの失敗」創世記9章20~29節

水曜日の聖書と祈りの集いでは、第一サムエル記を学んでいますが、

そこにはサウルやダビデの失敗も聖書は記しています。

創世記ではあの神と人との前に正しい人、全き人と紹介されたノアも失敗をしました。

私たちは成功話よりも失敗話から学ぶことがあるのではないでしょうか。

ノアの失敗とは、

 

1.ぶどう酒を飲んで酔ったこと。

ノアは洪水後、ぶどう畑を作りはじめて、その収穫されたぶどうでぶどう酒を作り、

それを飲んで酔ったということ。

その結果、「天幕の中で裸になっていた」とあります。

お酒は人を正しい判断を狂わせ、飲むうちにいつしか酒に飲まれてしまうことがあります。

気をつけたいものです。

教団発行の「信仰生活の指針」では

「麻雀、酒類、たばこ、不自然な薬品、暴飲暴食からは、

私たちが聖霊の宮であり、聖霊の力を受けることにより離れること」を勧めています。

 

2.息子ハムをのろったこと。

ハムは父の裸をみて、他の兄弟に告げましたが、

セムとヤぺテは着物で父の裸を覆い、隠して、見なかったのです。

本当の愛は人の罪を覆うのです。

罪人は人の罪を告げるのです。

酔いがさめた後、ノアはハムをのろいました。

神が祝福したものをのろうこと、

しかし、祝福ものろいも、本来は神がなされることです。

ノアの怒りがしたことでしょうが、しかし結果的にセムは祝福を受け、

セムの子孫にアブラムが生まれ、救い主イエス・キリストが生まれます。

ハムの子孫は後のカナン人となり、神の民を悩ます民族となります。

私たちはノアのような失敗をしないために、神の豊かな恵みをいつも思い、

私たちのからだが聖霊の宮であることをおぼえ、

御霊によって歩む信仰をもちたいものです。

  

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