過去の礼拝メッセージ

2018年2月25日(日)「アブラムとの契約と割礼」創世記17章1~27節

アブラムが99才の時、再び神のことばが臨んだ。そして、

 

1.神と契約を結ぶアブラム(1~4節、6節)

神の一方的な恵みにより契約を結ぶことになるアブラムでした。

15章においては信仰により神から義と認められたことも神の選びと恵みのみ業です。

行いによるものではなく、信仰による義だからです。

そして神との契約です。私たちにも救い主イエス・キリストを信じる信仰により義と認められ、

信仰により神の子の特権をもつことができるのです。(ヨハネ1・12、ローマ4・24)

 

2.名を新しく頂くアブラム(5節)

神はアブラムに新しい名を与えた。アブラハムです。

神が名を与えられるというのは、神がそうしてくださると

新しく造りかえられる者として導かれることを意味します。

アブラハムの名の意味は「多くの国民の父」です。

まだアブラハムと妻サライには子がありませんが、

神は後にイサク、イサクの子にヤコブが与えられ、イスラエル民族の祖先となるのです。

私たちも古い人のままでなく、新しい人を身に着るべきです。(エペソ4・24)

 

3.割礼を受けるアブラム(23~17節)

割礼とは男性の体に傷をつけることですが、これは神との契約のしるしであります。

しかし形だけ契約を守っていても中身がともなわないと意味がありません。

預言者エレミヤは「心に割礼を受けよ」と言われました。(エレミヤ9・26)

私たちも心から悔いて砕かれた魂で痛みをも覚えつつも

全能なる神に素直に降伏し、従う者となりましょう。

 

2018年2月18日(日)「全き者となりなさい」創世記17章1~6節

1.沈黙の後の神の現れ(1節)

16章において神の言葉はアブラムに臨みませんでした。

女奴隷ハガルには主の使いを通して神の介入はありましたが、神の沈黙。

それはアブラムの不信仰、不従順の結果だと思われます。

イシュマエルの誕生後、99歳までに13年が経っています。

 

2.全き者であれ(1~2節)

アブラムが99歳の時、再び神が現れ、神の言葉が臨みます。

その時、アブラムに神への思い、祈りが芽生えたのかもしれません。

「わたしは全能の神である。・・・全き者であれ」と言われます。

また後にはすべてのイスラエル人にもそのことを求めます。(申18・13)

神のみ心は全き者であること。それは人間の努力や徳ではとうていできないこと。

そのためには神のみ前に歩み、罪が示されたら悔い改めることです。

そして信仰による義を受けることです。(創15・6)

 

3.祝福の約束(4~6節)

アブラムはここでも神の祝福の約束を受けます。神の選びとしかいえないことです。

そのためには神のみ前に歩み、全き者となる必要がいります。

私たちも神の選びの中にあること、祝福を受ける者であり、

そのために神のみ前に生き、全き者となることを願い望むことです。

私たちは罪人であってもイエス・キリストの十字架の血による聖め、聖霊による聖めを頂き、

信仰による新生、義認、聖化の恵みを受け、全き者となることができるのです。

「恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1・16)と。

イエス・キリストによる恵みを受けましょう。

 

2018年2月11日(日)「ご覧になる神」創世記16章1~16節 ペテロの手紙第一5章7節

1.アブラム家族の危機(2~5節)

アブラムの妻サライは神の約束を信ぜず、女奴隷を代理妻とし、

産んだ子の母になる計画をもち、アブラムに提案します。

しかし、その提案をアブラムは受け入れます。

アブラムの不信仰の行為です。その結果、子どもを身ごもりますが、

女奴隷ハガルは女主人サライを見下げるようになり、サライは傷つくこととなり、

自分の責任の転嫁を夫であるアブラムにします。(5)

 

2.無責任なアブラム(6節)

アブラムは「彼女をあなたの好きなようにしなさい」と妻サライの好きにさせるのです。

あまりにも無責任なアブラム。そのことでサライはみごもっているハガルを虐待するのです。

現代にも起こりうること、被害者が虐待者になることを教えているように、

その結果ハガルはサライから離れ、家を出ることになります。

 

3.神の介入(8~13節)

しかし、荒野にいたアブラムの子をみごもっていたハガルに主の使いがあらわれ、

家にもどるように指示を受けます。

そしてその子は男の子で名をイシュマエルとつけること、あなたの子孫を増やす」と言われたのです。

ハガルも主のみ名を呼び、「あなたはエル、ロイ」と言います。

「私を顧みられる神」という意味です。

私たちも気の毒な立場に立たされている時があります。損な人生を送っていると嘆くこともあります。

神は苦しみの祈りを聞かれる神であり、謙遜に生きるなら神は私たちのことを目を留めて下さるのです。

(詩8・4、Ⅰペテロ5・7)

私たちの神はご覧になる神なのです。そのような経験をもって感謝できる信仰者になりたいものです。

 

●2017年2月4日(日) 「アブラムの祝福(信仰による義)」創世記15章1~6節

アブラムがゲドルラオメルの連合軍を打ち破り、ロトとその家族を救った後に

主はみ声をかけられるのです。

「あなたの受ける報いは非常に大きい。」(1節)と。

しかしそれを全部受け入れることができないでいるアブラムがそこにいました。

「信仰の父」と呼ばれたアブラムでしたが、

さまざまな経験を通して成長していくのです。

しかし、本章でもアブラムから私たちは多くのことを学びます。

 

1.本音でぶつかるアブラム(2~3節)

抑えてきた感情を主にぶつけます。

自分にはまだ子どもがなく、だんだんと年をとってきていたからです。

「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。」(2節)と

本音でぶつかるアブラムがそこにいます。

 

2.空の星を見上げるアブラム(5~6節)

「さあ、天を見上げなさい。」と。アブラムは空を仰ぎ、星を見たのです。

そこには無数の星があり、アブラムは励まされたのです。

 

3.義と認められたアブラム(6節)

この主とアブラムとの関係を通して、

私たちはもっと主に期待を置き、信じることの大切さを教えられるのです。

人間は目に見えるもののみ信じる者ですが、

信仰者はイエス・キリストの弟子トマスにいわれた言葉をいつも思うことです。

「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20章29節)

アブラムはまだイサクが生まれていないそのとき

「あなたの子孫はこのようになる。」との主の言葉を信じる信仰により

義と認められたのです。

行いによる信仰義認でなく、信仰により。(ローマ4章2~3節)

 

●2017年1月28日(日) 「新しい人アブラム」創世記14章1~24節

前回はアブラムの祭壇の生涯をみました。

それゆえ神はアブラムを祝福し、新しい人アブラムへと導きます。

人は新しく変わることができるのです。そのことをアブラムから学びます。

 

1.勇敢なアブラム(14~16節)

アブラムと別れてソドムにいるロトのために

いのちをかけて救おうとする姿があります。

「兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3章16節)のみ言葉を思います。

アブラムだけでなく318人のしもべたちも、戦いの経験もないのに勇敢に戦います。

主人アブラムから愛され、またアブラムを信頼していたからです。

 

2.愛があるアブラム(14~16節)

アブラムは、しもべたちを愛し、そしておいのロトを愛する愛。

かつて自分の妻さえ妹と偽り嘘、夫婦の危機をもたらしたアブラムでしたが

今は変えられていたのです。

祭壇それは礼拝で、礼拝のなかで聖霊を受けて、新しく造られた者とされるのです。

(Ⅱコリント5章17節)

 

3.祝福を受けるアブラム(18~20節)

祭司メルキゼデクよりアブラムは祝福を受けます。

毎週の礼拝の中でも牧師より祝祷を受けます。

新しく造られた者は神の祝福を受け、祝福の基とされます。

そして感謝し、メルキゼデクに十分の一をささげます。

十分の一献金の最初の聖書の記述です。

キリスト者は月定献金をささげることが大事です。

そして聖書には十分の一をささげるよう示しています。

(マラキ3章10節、マタイ23章23節)

献金はさらにキリスト者が経済的にも神の祝福を受ける道とし

定められているのです。

 

●2017年1月21日(日) 「祭壇の生涯」創世記13章1~18節

前回はアブラムの失敗と挫折の所を学びました。

人間は成功よりも失敗から多くのことを学ぶものです。

 

1.信仰に立つアブラム

アブラムは過去の失敗と神のあわれみを体験し、そこから学び、13章で信仰に立ちます。

彼はエジプトを出て、べテルとアイの間にとどまり、

神に以前祈った場所で信仰の原点に立ち返ります。

 

2.問題を抱えるアブラム

アブラムはそこで問題を抱えます、所有物と財産そして食糧問題です。

そしてアブラムはおいのロトと共に生きることができなくなってきたのです。

 

3.神に信頼するアブラム

土地を優先する権利は自分にあるにもかかわらず、

アブラムはおいロトに選択権を先に与えます。

そのことは神に対する信頼から来るものです。アブラムは霊の人、ロトは肉の人。

ロトはおじアブラムのその指示を受け入れ、自分の欲で先に土地を選んだのです。

ヨルダンの低地は緑が豊かで牧畜には適している場所です。

ロトは見えるものにより判断し、見えない神を信頼するものではなかったのです。

アブラムは神が示す地を選び、そこで祭壇を築きます。(18節)

祭壇を築く行為は現代では神への礼拝の姿勢の表現です。

私達も礼拝の祭壇、そして水曜日の聖書と祈りの集いや早天祈祷会にも参加し、

また朝早く一人で家で祈りの祭壇を築きましょう。

私たちは一年に52回聖日礼拝があります。

新約においても旧約においても私たちの原点は「礼拝の民」です。

一人一人祭壇の生涯を送りましょう。神の祝福の民としての自覚をもって。

 

●2017年1月14日(日) 「失敗と挫折を超えて導く神」創世記12章10~20節

本日より再び創世記より講解説教をします。

前回はアブラハムが旅立った記事を取り上げました。

主の祝福の約束を信じ、新しい地に踏み出したのです。しかしそこでは大きな困難がありました。

一つは飢饉、そしてもう一つは大国エジプトの国の人々からの脅威に会うことです。

そのことで神に不満を訴えたかもしれません。ここから3つのことを学びます。

 

1.失敗するアブラハム(13節)

アブラハムは飢饉に会い、自分たちの身を守るためどう生きるかと悩んだと思います。

その結果、大きな罪を犯します。

妻サラが美しいため、エジプト人はサラを欲しがり自分を殺そうとするだろうと、

自分の妹であると嘘をつくのです。

このことは倫理的に赦せないことですが、信仰的にも赦せないことをしたのです。

それは、妻サラに姦淫の罪を犯させることであり、神の約束を無視したことでした。

 

2.挫折するアブラハム

アブラハムは罪を犯したことに気がつき、深い挫折感・絶望感をもつようになります。

人間への恐れと、愛する妻との別れのなかで。

 

3.神の守りと導きを受けるアブラハム

妻サライのことでパロと宮廷に災害を与えましたが、二人は危機から守られました。

ただ、「あなたは・・何ということをしたのか。」と神は言われます。

かつて神は、エバに対して同じ言葉を言っています。(3章13節)

罪を認めることで救いが始まるのです。

神はときに異邦人をも用いてまで教え、救い出してくださるお方です。

約束されたことを実現しようとする真実な神です。(Ⅱテモテ2章13節)

 

●2017年1月7日(日) 「礼拝に生きる年」コロサイ3章16節

毎年新年礼拝においては教会標語と聖言から説教しています。

2018年度は4月からですが、標語「礼拝に生きる年」

聖言はコロサイへの手紙3章16節です。

信仰者は礼拝に生きる者であり、礼拝において成長していくものです。

そこには幸いな主にある交わりがあるからです。

義務ではなく、恵みとして日曜日、礼拝をささげて神の豊かな祝福の道を

2018年度も歩みましょう。

 

1.恵みとしての礼拝

十戒に確かに「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とありますが、義務として

日曜日礼拝を守るのではなく、恵みとしての礼拝でなければ続きません。

イエス・キリストはサマリヤ人の女性を罪から救っただけで満足されないで

礼拝のことを告げました。

「神は霊ですから、・・霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

(ヨハネ4章24節)と。

罪人を救いに導き、礼拝の民とされたのです。そこに大いなる神の恵みがあります。

 

2.御言葉で養われる礼拝

礼拝の中で重要なものに聖書朗読と説教があります。そこでは御言葉が伝えられます。

コロサイ3章16節には「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせ」とあります。

聞くことから始まり、その御言葉より養われて、信仰者は成長するのです。

 

3.賛美と感謝にあふれた礼拝

当時初代教会は「詩と賛歌と霊の歌」をもって賛美の礼拝がもたれました。

古くからの賛美歌も新しい賛美も大切で神をほめたたえること。

そして、感謝にあふれた礼拝をもつことが大切なのです。

 

●2017年12月31日(日) 「神の守り」マタイ2章12~23節

今年最後の礼拝です。まだクリスマス礼拝の余韻がある時期です。

今日の聖書箇所では、東方の博士たちが別の道を通り自分の国へ帰って行ったこと、

ヨセフ、マリヤとイエスがエジプトへ逃避し、帰国したことが記されています。

そこに神の守りがあったこと、神を信じる者を神は共にいて守って下さいます。

そのことを確信しましょう。

 

1.東方の博士たちの守り

博士たちは夢で「ヘロデのところに戻るな」(12節)とみ告げを受けました。

そのままヘロデのところへ行けば、イエスのいる場所が示され、殺されていたでしょう。

イエスの守りと博士たちの守りがあったのです。

また「別の道」(12節)とは象徴的です。

今までと違う道であり、神の守りの道です。試練の中にも「脱出の道」を用意する神です。

(Ⅰコリント10章13節)

 

2.聖家族の守り

神は主の使いを通してヨセフに語りかけ、夢で、危機が迫っていることと、

すぐにエジプトへ逃げることを示されました。

そんな理不尽なこともマタイは預言の成就だと言います。

「わたしの子をエジプトから呼び出した。」(ホセア11章1節)

これも神の御手の中で起きたことで、預言の成就、そしてメシヤの証であり、聖家族の命が

守られました。

 

3.信仰者たちの守り

信仰者は、すべての出来事が神の御手の中にあることを、現実としてみる者であり、

そのことが必要です。

そして試練の時も私たちの神はインマヌエルの神であることを忘れてはいけない。

現実逃避でなく、日々神の導きと守りがあることを信じていきましょう。

 

●2017年12月24日(日) 「クリスマスの日、あなたは」ルカ2章8~20節

クリスマスおめでとうございます。

礼拝のなかで、共 に救い主イエス・キリストの誕生をお祝いできる喜びをもてますことに感謝です。

そして、今年のクリスマスはお互いに特別な日となれますように。

クリスマスを知らない人はいないでしょう。しかし、誰を、何のためにお祝いしているのか

わからないでいる人が多いことでしょう。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日です。

私たちは今、聖書のみ言葉を通してそのことを確認しましょう。

 

1.神が人となられた日であること。

羊飼いに主の御使いより託されたメッセージは、ダビデの町(ベツレヘム)であなたがたのために救い主が

お生まれになったことでした。

神が人となられた日、羊飼いはその場所に行って、その事実を確認します。

私たちも、私たちのために、神であられる方が人となられた事実を受け止め、共に喜び合いましょう。

救い主は空想の存在でもなく、私たちと関わりのない方ではありません。

私たちに不幸、悲しみ、苦しみの根源である罪からの救いを与えるお方、救い主(メシヤ)です。

 

2.その出来事に共に関わり、喜ぶ日であること。

今朝礼拝に出ていること自体、私たちは関わりをもっています。そしてあの羊飼いは救い主と出会い、

喜び、神を賛美しました。生き方が変わったのです。

私たちも、救い主イエス・キリストと出会い、そのお方を礼拝し、共にそのお方を賛美しましょう。

夜のキャンドル・サービスでは、最後に恒例のヘンデル作曲の「ハレルヤコーラス」を

聖歌隊が賛美します。

 

●2017年12月17日(日) 「新しいこと」イザヤ42章1~9節

アドベント(待降節)に入り、救い主イエス・キリストの誕生をお祝いできる喜びを

もちましょう。

イザヤ書の預言に「新しい事を、わたしに告げよう。」とあります。

人々の中にはクリスマスを迎えるに際し、体調をくずし、人間関係も最悪、経済的困窮、

さまざまな苦難のなかにいる方がいます。

喜ぶふりをするのではなく、苦難が喜びに変えられること、

それこそ一番のクリスマスの恵みです。

イザヤ書の主のしもべは不信仰なイスラエルの民に向かって語られる方で、

苦難のしもべでもあります。

しかしその中で神の救いを受ける者が起こされる、新しさでもあるのです。

その新しさは、

 

1.罪の赦しです。

神が人の罪を赦す方であることを知ることは喜びの源です。

神は裁き主ですが、赦す神でもあります。

そこにはイエス・キリストの十字架の贖いがあることを思います。

神は人に息(霊)を与え(5節)、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みがわかるように

霊の心を整えるのです。

 

2.見守りと正しい導きです。

神が人となり、人の苦難を知りつつも「彼は衰えず、くじけない。」(4節)

それゆえに私たちをも励ますことができます。

そして、小さな信仰をもち続ける大切さを知って見守られます。

また「国々の光」となり、正しい道を示し、導くことのできるお方です。

私たちが懲らしめられるのではなく、主のしもべ、イエス・キリストが懲らしめられる

(53章)ことを通して示される新しい出来事をみつめるときに、

ハレルヤ、救いの喜びを知るのです。

 

●2017年12月10日(日) 「戸の外に立っている主」ヨハネ黙示録3章20節

先週よりアドベント(待降節)に入りました。

そして今イエス・キリストの誕生のことを思いめぐらすとき、

この世がこの誕生を受け入れていなく、

「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(マタイ2章7節)のみ言葉のごとく

神の御子の誕生を盛大にお祝いしていないことを思います。

現代のクリスマスはイエス・キリストが中心でなく、

誰をお祝いしているかわからないクリスマスを楽しんでいるのです。

ヨハネの黙示録にラオデキヤの教会のことが書かれています。

そこそこ満たされてはいるが、なまぬるい信仰をもち、本当の豊かさを知らないのが

ラオデキヤの教会の信徒たちでした。

イエス・キリストのみ思いを知らずにいたその信徒たちに、

 

1.戸の外に立ってたたいている主イエス・キリスト

その戸は内側からしか開けることができない戸です。

イエス・キリストの方から開けることができないのです。その戸は私たちの心の戸です。

イエス・キリストが戸の外にいるということは、心の中にイエス・キリストがいない状態。

イエス・キリストは私たちの心の戸をたたいているのです。

ラオデキヤの信徒たちや私たちのことを、どうでもいいとは思わないお方。

だからイエス・キリストはたたき続けます。

 

2.戸を開ければ共に食事し励ます主イエス・キリスト

私たちの心の戸をあけるならイエス・キリストが入って下さり、食事を共にします。

食事を共にするというのはイエス・キリストと深い交わりをするという意味で、

励ましの時、祝福の時、問題の解決の時です。

アドベントの今、頑なな心ではなく、素直に心の戸を開けて主イエスを迎え入れましょう。

 

●2017年12月3日(日) 「他にメシヤを待つべきか」マタイ11章2~14節

今日よりアドベント(待降節)に入ります。そして今日はアドベント第一主日です。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。」(3節)

これはバプテスマのヨハネの言葉です。この意味を深く味わいましょう。

バプテスマのヨハネは主イエスの道を備えるために生涯をささげた人でした。

そのことで今、獄に入れられ、死を待つときとなりました。

完全な人はいなく、人はみな弱く、時には信仰が揺らぐことがあります。

バプテスマのヨハネも同様です。彼の問い、そしてイエス・キリストの答えより

私たちの今の信仰を深めていきたいと思います。

 

1.揺らぐパプテスマのヨハネ

パプテスマのヨハネは試練を受け、深刻に危機的問いをしています。

自分が信じてきたことと経験したことにギャツプを感じていたのでしょう。

ナザレのイエスは本当に期待していたメシヤであろうか。

イエス・キリストは無力ではないか。

ヨハネは弟子を通してイエス・キリストに質問するのです。

 

2.イエス・キリストの答え

主イエスは答えます。「目の見えない・・・貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」(5節)

そして「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(6節)と。

イエス・キリストの答えは明確で、

自分がメシヤであり、あなたが待ち望んだ救い主であること、

神の恵みのみ業は進んでいるということでした。

イエス・キリストの弟子パウロの言葉にも

「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(Ⅱコリント12章9節)とあります。

キリスト者にも信仰が揺らぐことがあるかもしれない。

しかし、イエス・キリストは確かに救い主であり、すべての人々のメシヤです。

確信をもってクリスマスを迎えましょう。

 

●2017年11月19日(日) 「主の救いから生まれる賛美」使徒のはたらき16章16~34節

本日は賛美礼拝で、主イエス・キリストを覚えて賛美をささげます。

本章に厳しい試練や困難の中で賛美をささげた人が登場します。

パウロとシラスです。

かってパウロはキリスト者を迫害した人でした。

しかし主の救いにあずかり賛美する人と変えられたのです。

 

1.獄中での賛美

パウロとシラスは獄中で祈りと賛美をささげました。

パウロとシラスは罪を犯したのではなく、イエス・キリストを伝え、

悪霊を主の力により取り除いたことで獄に入れられました。

いつ獄から出られるかわからない状態、獄で死ぬかもしれない。

そのような中で祈りと賛美をささげたのです。

そして獄の中で賛美を聞いていた人たちがいました。

囚人たちです。

自分たちは獄に入れられたことで不平不満の中にいたことでしょう。

しかしパウロとシラスの賛美を聞き入っていたのです。(25節)

 

2.主の働きを起こすことのできる賛美

祈りと賛美の中で大地震が起こり、獄の扉が開かれました。

看守は、囚人たちが逃げ、自分がその責任をとって死刑になるかもしれないと思い、

自害しかけたときに、パウロとシラスが言います。

「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と。

そしてパウロとシラスが信じる神を求め、救いにあずかります。

彼らの家族たちにも主の言葉が伝わり、

イエス・キリストが十字架で死に、三日目によみがえられことが伝えられ、

そして看守とその家族たちが洗礼を受ける奇跡がなされ(33節)

主の救いを受け喜びを得ることができました。

またパウロとシラスも獄から釈放されたのです。

賛美には力があり、主の働きが起きるのです。

 

●2017年11月12日(日) 「天まで届く塔」創世記11章1~9節

創世記11章には有名なバベルの塔の話があります。

有名になりたい、注目されたい、神のような力を見せつけたいと思い

人間は天まで届く塔を建てたのです。

個人名はありませんが、人間の高慢の罪です。

神の助けなど必要ないと、人間が思ったその結果どうなったのか、

そのことを通して私たちキリスト者も深く学びたい。

 

1.混乱したこと

もとは一つの言葉(1節)で意志が通じて人々は定住していたが、

神は人々の高慢の罪を思い、言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにし、

人々を散らした(6~7節) とあります。それは神の裁きです。

それゆえ人々はばらばらとなり混乱をきたしたのです。

コミュケーションがとれず、争いやもめごとが頻繁になっていったのです。

現代も混乱しています。

なかなか一致できず、争いがやむことがなく、調和ができない社会です。

 

2.聖霊の働きがあったこと

言葉が乱されたことで人間が生きるのに不便にはなりましたが、

異なる人間の出会い、異なる文化や感情、論理にあって人間存在の深い意味を知ることになります。

全地のおもてに散らされた人々の中からセムの家系は主の祝福を受け継ぐ者たちとなりました。

そしてアブラハムが生まれるのです。神は悪を善に変えることのできるお方です。

主イエス・キリストを十字架につけた者も、主を知り、信じるならば

上から聖霊がくだり、言葉は統一できなかったが、

それぞれ理解できる神の恵みの説教が弟子たちによってなされました。(使徒2章)

弟子たちは自分の名のためでなく、神のみ名を賛美して神のみ業をほめたたえていたのです。

 

●2017年11月5日(日) 「ノアの失敗」創世記9章20~29節

水曜日の聖書と祈りの集いでは、第一サムエル記を学んでいますが、

そこにはサウルやダビデの失敗も聖書は記しています。

創世記ではあの神と人との前に正しい人、全き人と紹介されたノアも失敗をしました。

私たちは成功話よりも失敗話から学ぶことがあるのではないでしょうか。

ノアの失敗とは、

 

1.ぶどう酒を飲んで酔ったこと。

ノアは洪水後、ぶどう畑を作りはじめて、その収穫されたぶどうでぶどう酒を作り、

それを飲んで酔ったということ。

その結果、「天幕の中で裸になっていた」とあります。

お酒は人を正しい判断を狂わせ、飲むうちにいつしか酒に飲まれてしまうことがあります。

気をつけたいものです。

教団発行の「信仰生活の指針」では

「麻雀、酒類、たばこ、不自然な薬品、暴飲暴食からは、

私たちが聖霊の宮であり、聖霊の力を受けることにより離れること」を勧めています。

 

2.息子ハムをのろったこと。

ハムは父の裸をみて、他の兄弟に告げましたが、

セムとヤぺテは着物で父の裸を覆い、隠して、見なかったのです。

本当の愛は人の罪を覆うのです。

罪人は人の罪を告げるのです。

酔いがさめた後、ノアはハムをのろいました。

神が祝福したものをのろうこと、

しかし、祝福ものろいも、本来は神がなされることです。

ノアの怒りがしたことでしょうが、しかし結果的にセムは祝福を受け、

セムの子孫にアブラムが生まれ、救い主イエス・キリストが生まれます。

ハムの子孫は後のカナン人となり、神の民を悩ます民族となります。

私たちはノアのような失敗をしないために、神の豊かな恵みをいつも思い、

私たちのからだが聖霊の宮であることをおぼえ、

御霊によって歩む信仰をもちたいものです。

  

〒651-1113
神戸市北区鈴蘭台南町1-2-49
TEL 078-591-2271
FAX 078-591-2271
Mail suzurandai_fukuin_kyoukai
@nifty.com

カウンター

ご訪問ありがとうございます

あなたは


番目のご訪問者です☆

HP管理人:faith13