ルカの福音書7章1~10節
先週の礼拝で、同じ聖書箇所より「み言葉の力」と題して説教をしました。
確かにここはそのような内容でしょう。しかし、別の視点から見てみると、今日お話しするようにも理解できるのです。
イエスがなされたわざはすべてといっていいほど恵みのみわざなのです。
そして、人は神の恵みによって救われ、生きるのです。イエスの十字架も私たちが罪から救われるためなのです。
Ⅰ、資格のない者に与える恵み
神の恵みとは、資格のない者に与えられる資格です。
ユダヤ人と異邦人とは交わりがありませんでした。交わりがあっても純粋な愛の交わりではありません。この百人隊長も、ユダヤ人の長老から信任を受けてはいましたが、自分は
異邦人であるゆえに、心からの愛の交わりがなかったことを知っていました。
ですから、ここで「資格はありません」(6節)と言ったのです。しかし、イエスはこの
百人隊長の部下の命を救ったのです。ですから恵みのみわざなのです。
Ⅱ、資格がないことを知った者に与えられる恵み
私たちも、たとえキリスト者であったとしても、自分に「神の子」と呼ばれる資格がないということを悟ることがなければ、神の救いにはあずかれても恵みの中に生きることは
できません。
放蕩息子も「息子と呼ばれる資格はありません。」と言いました。(ルカ15・19)。
私たちキリスト者は、神の教会の奉仕をすることで救いがあるのではないのです。
奉仕が出来なくても、神の愛はいつも注がれています。また、礼拝にあずかることも
尊い奉仕なのです。
あのイエス・キリストの十字架が私たちの罪の身代わりであり、もう既に私たちの罪が
赦されているのですから。私たちキリスト者は罪人であることを認め、十字架の血潮を
賛美し、ただ感謝すればいいのです。(Ⅰヨハネ1・8,9)
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