ルカの福音書7章24~35節
バプテスマのヨハネの教えを聞いた民衆はみな洗礼を受け、神の正しさを認めたのです。(29)しかし、パリサイ人たちや律法の専門家たちはその教えを聞きつつも、
神のみこころを拒んだのです。(30)
彼らは自分たちが正しいと思い、結局は神の正しさを拒んだかたちとなったのです。
私たちキリスト者はどちらを選ぶのでしょうか。
Ⅰ、自分の正しさ
私たちは、律法の専門家たちやパリサイ人たちと同じように、自分の考えは正しいと
思いやすいのです。洗礼者ヨハネが語るように、私たちは実は悔い改めなければいけない
罪人なのです。律法の専門家たちやパリサイ人たちは自分たちは正しく、罪人ではなく、
悔い改める必要はないと、高慢になっているのです。そして、まことの神は罪人とは交わりをもたないので、罪人のことを神殿には必要がない存在とみていたようです。
Ⅱ、神の知恵の正しさ
自分自身が罪人であると自覚している人は、バプテスマのヨハネの教えを聞いたとき、
神の前に悔い改めたのです。神に従うことで神の正しさを証明する者とされるのです。
神のみこころ通りに生きていない自分、神のあわれみにすがることしかない存在であることを知る神の知恵です。
日本語の「知恵」は「恵み」を「知る」と書きます。そのように神のあわれみにすがり、
恵みに生きることです。使徒パウロは自分の弱さを誇れと言いました。そして主イエスは
このような貧しい者たちと共に喜びの食卓を囲みたいと招かれるお方であり、
その主イエスを私たちは信じているのです。
私たちはそのような神の愛、神の恵みを知る知恵によって生きているでしょうか。
知恵の正しいことは神の恵みに従い、信じ、生きる姿で証明されます。
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